文学ファイター

この記事で言う「自律主義」「他律主義」は、この記事の中だけの使い方であって、世間で言う「自律主義」「他律主義」とは意味が違うので気をつけて。

自律主義的生き方。他律主義的生き方。

これから私が話すことは、私の思い込みのみで話すことであり、なんのデータの裏付けもないので、話半分で聞いてね。

自律主義と他律主義の話。

私は、自分自身の生き方というものは、他人に迷惑をかけない限り、いくらでも自由に生きていいという考えを持っています。つまり、「なんか面白そうだから」という理由でAV女優になりたい女の子がいたとしたら、もしその行為が他の誰にも迷惑がかからないなら、その女の子はAV女優になる自由があると思ってる。「この世で生きていくのが辛いから」という理由で出家したい男の子がいるとしたら、もしその行為が他の誰にも迷惑がかからないなら、その男の子は出家する自由があると思ってる。

私は、「自分がどういう生き方をしたいか」ということに対して、「その生き方が他人から見てどう思われるか」は、特に考える必要は無いと思ってる。だって、自分の人生じゃん。なんで自分がどう生きるかについて、他人の目を気にしないといけないか意味がわからない。他人の目を気にして生きたとしても、その他人が私の人生の責任を持ってくれるわけないし。もちろん他人に迷惑をかけるのはダメだけど、逆に言えば、他人に迷惑をかけさえしなければ、自分が生きたい人生を送って良いに決まっている。私は昔からこういう考え方だったので、私以外の皆も、当然こういう考え方だと思ってた。自分の人生は自分で好きなように生きるべきであり、他人の目なんか気にする必要がない。これを『自律主義的生き方』と名付けよう。

でも、ある日ネットで次のような記事を見た。『夫に「お金持ちになったら、働かずに生きていく?」って聞いたら「いや、お金持ちになっても働くよ。働かないで生きていくって、人としてどうかと思うよ」という回答をもらった。私も同感だ』。マジで?そうなの?夫婦でそうなの?世間からの目を気にするの?他人からどう見られるかで自分の生き方を決めるの?その他人が私自身の人生の幸福を保証してくれるわけでもないのに?他人からどう見られるかで生き方を決める考えを『他律主義的生き方』と名付けよう。

考えてみたら『自律主義的生き方』の人が多いというのは、私の勝手な思い込みで、実は世の中には『他律主義的生き方』の人の方が多いのかもしれないと考えを改めた。そして、この考えの違いは、おそらく「社会への所属意識の違いから来ているのではないか」という推測をしてみました。

私と考え方が違うだけで、『他律主義的生き方』が悪いわけではない。『他律主義的生き方』の人は、つまり「社会規範」を生き方のベースとしているのだと思う。「自分は社会を構成する構成員の一員であり、社会に奉仕するのが当然だと思っている」という考えを持っているのだと思う。つまり、その人の価値観の中で「社会に奉仕する」という考えが強いのだと思う。『自律主義的生き方』は、「他人に迷惑をかけない限り」という前提条件をつけたとしても、社会の風紀が乱れる要員になりえるし、自身が今所属する集団(社会)から、排除される恐れがあるからだ。『他律主義的生き方』の人は、昔から「集団(社会)のために奉仕する」ことが当たり前な価値観で生きてきたのだと思う。おそらく部活は運動系。集団を助け、また集団に助けられることのメリットを理解している人。それに対して『自律主義的生き方』の人は社会のことを考えない、自分勝手な人間のクズ!滅びよ!ごめんなさい!

というわけで、この記事を見ている人の中には当然『他律主義的生き方』の人もいることでしょう。そして私は『自律主義的生き方』の人。どういう考えで『自律主義で生きる』という考えに至ったかは人によって異なると思うけど、私の場合を話してみようと思う。

まず、私は「私は社会を構成する構成員の一員である」という意識が低い。例えば私は会社できちんと働いているけど「私はこの会社に所属する人間のうちの一人である」という意識が低い。多分『他律主義的生き方』の人は、会社と自分自身との関係を「会社に所属する私」という認識だと思うんだけど、私は会社と自分自身の関係を「会社と私」としか認識していない。なんとなくそれぞれ別個の存在として認識してる。会社に対してよりも、家族に対してのほうが所属意識が高いけど、それでもやっぱり「家族の中の一人としての私」というよりは、「家族と私」という認識で、やっぱりそれぞれ別個の存在として認識している。だから「私は自由に生きるから、そちらも自由に生きてね」という考えがベース。多分、『他律主義的生き方』の人は、何らかの集団に所属しているのが当前のことであって、「社会の規範から外れた生き方をすると、社会というグループから外されて、一人になるかもしれないじゃないか。人は一人で生きていけるわけがないのにどうやって生きていくつもりなの!?」という恐怖があるのだと思うけど、私はそもそも最初から社会というグループに所属している認識がない。私は学生の頃、部活はチームプレーが不要な部活か、もしくは幽霊部員だった。友達も昔から少なかった。

つまり『自律主義的生き方』と『他律主義的生き方』の違いは、『個人主義』か『集団主義』かの考え方の違いから来ているのかもしれない。これ以降は、ここまでの話をベースとして話します。

「誰も私のことを分かってくれない」話。

「誰も私のことを分かってくれない」という文句を言う人がいるけど、前提条件が間違っているのだと思う。つまり、人間は本当の意味で誰かのことを理解することがそもそも出来ない、ということだ。だから、確かにあなたのことを私達は本当の意味で誰も理解することは出来ないけれども、じゃあ逆に聞くけど、お前はお前以外に、本当の意味で理解することが出来る家族や、友人や、恋人や、第三者がいるのか?私達は誰かのことを理解しようと努力することはできるけど、本当に理解することは出来ないのだ。だって私達は自分の思考を誰かにそのまままるごとコピーすることは出来ないからだ。もちろん言葉である程度説明はできるけど、なぜその考えに至ったかという人生経験やなんやかやまでは伝えることは出来ない。

つまり、この世界で本当の意味であなたのことを理解できるのは、あなた自身しかいない。あなたが言う「大丈夫」は、本当に「大丈夫」なのか、それとも強がって言っている「大丈夫」なのかは、あなた自身にしか分からない。あなたが言う「死ね」は、冗談で言っている「死ね」なのか、心の底から言っている「死ね」なのかはあなた自身にしか分からない。あなたが言う「プリンを死ぬほど食べたい」は、冗談で言っている「プリンを死ぬほど食べたい」なのか、マジで言っている「プリンを死ぬほど食べたい」なのかはあなた自身にしか分からない。

そして、もしあなたが、あなた自身のための行動を何も行わないとしたら、あなたの事を本当の意味で理解している人の中で、あなたのために行動をしている人がこの世界に誰もいないということだ。例えばあなたがあなた自身の人生について何も考えていないとしたら、あなたの事を本当の意味で理解している人の中で、あなたの人生について考えている人はこの世界に誰もいないということだ。例えばあなたがあなた自身の幸福について何も考えていないとしたら、あなたの事を本当の意味で理解している人の中で、あなたの幸福について考えている人はこの世界に誰もいないということだ。

この世界にはもちろん、あなたの人生について考えてくれる親や、あなたの幸福について考えてくれる友達や恋人がいるだろう。でも、彼らは本当の意味であなたのことを理解しているわけではないので、生きたくもない人生を送ったり、特に欲しいと思っていなかった一般的には幸福と言われる何かを押しつけられたりするのだ。つまり、この世界はあなた自身があなた自身のために行動しない限り、本当にあなたが生きたい人生は送れないし、本当にあなたが欲しい幸福は手に入らない。

この世界で、あなたのために命までかけられる人は、究極に言えばあなた自身しかいない。もちろん、あなたの家族や恋人や友人はあなたのために死んでもいいと思っているかもしれないけど、もし目の前に殺人鬼がいて、あなたのそばに誰もいないならば、あなたを守るために何かが出来る人は、あなた自身しかいない。究極の状況では、あなた自身しかあなたを助けることが出来ない。

あなたが社会のために何かを行うことと、それに対してあなたが何か利益を得られるかは別の話。

日本は世界でも珍しい無宗教国家です。でも、犯罪発生率は低いです。なぜなら日本には宗教とは別に、道徳観というものがあるからです。私達は子供の頃からマンガやアニメなどで、無意識に道徳観を学んでいきます。例えば、昔話の「かさじぞう」では、寒そうなお地蔵様に「かさ」と「手ぬぐい」をあげると、恩返しで宝がもらえるし、「シンデレラ」では、家族にいじめられながらもマジメに生きていると、ある日魔法使いがかぼちゃの馬車で……、ガラスの靴が……、最後は王子様と結婚できるし、アニメのワンピースでは、悪い海賊に虐げられていても、頑張って生きていたら、ある日モンキー・D・ルフィーという超強くて超格好いい正義の味方が現れて助けてくれるのです。

私はこの世界を30年とちょっとしか生きていないけどその経験から言わせてもらうと、確かに人間は他人に優しくあるべきだし、辛くても頑張るべきだし、正義は応援すべきだと思うけど、そうした結果としてあなたにハッピーエンドが訪れるかというと、それはまた別の話だということだ。誰かを助けても、助けた人に裏切られることはあるし、辛くても頑張っていたらあなたの心が壊れることはあるし、正義は負けることがあるし、そもそもこの世界に正義なんて無いのかもしれない。あなた一人が正義のために頑張ったとしても、この世界ではモンキー・D・ルフィーは現れないし、あなたは死んだりする。当たり前じゃん。だって私達は作り話の世界に生きているわけじゃないんだもの。私は子供の頃は素直だったので、単純に「人に親切にして、辛くても頑張っていたら良いことがある」のだと思っていた。確かに良いこともあったけど、悪いこともあった。そして、出した結論が「『自分が他人に優しくしたり、辛くても頑張ったり、正義を応援すること』と『自分自身が楽しく生きられること』に、因果関係は特に無い」ということだ。

誤解しないで欲しいのは、「だから他人に親切にせず、辛かったらすぐにあきらめて、悪を応援しよう」と主張しているわけではない。因果関係がないとだけ言っている。つまりあなたが「人に親切にしようが不親切にしようが、辛くても頑張ろうがすぐに諦めようが、正義を応援しようが悪を応援しようが」、それ自体とあなたが「楽しく生きられること」は何も関係がないと言っている。つまり、社会規範的な生き方をすることと、自分が楽しく生きられることは関係がないと言っている。例えば「親切で、辛くても頑張り、正義を応援する人」が不幸な人生を送ることも当然ある。だって、その人がどういう人間かと、どんな人生を送るかは関係がないからだ。別の話だからだ。

じゃあ、どうすれば楽しく生きられるのかというと、そもそも「楽しく生きることそのものを目的」とすればいい、ということだ。それを目的として行動すれば、それを達成できるに決まってる。私は可能であればお金持ちになって、働かずにプラプラ生きていきたい。そして、私が働かずにプラプラ生きていくことと、私が「親切か、不親切か、辛くても頑張るか、すぐに諦めるか、正義を応援するか、悪を応援するか」は何も関係がない。人がどういう人生を送るかと、その人がどんな人間かは何も関係がない。

この世界で私以外の誰も、私のことを理解できないのなら、私は私のために、私の人生について考えて、私の幸福について考えて、私のために行動するのは当たり前じゃない?それに人間って、いつか死ぬし。死ぬ時ってあんまり後悔とかしたくなくない?じゃあ、死ぬときに後悔しないために、今、生きているうちに自分のためになると思うあらゆることをしておきたいと思うのは当然じゃない?私のために全人生をかけて行動できる人は、私自身しかいない。私の他に、代わりはいない。

という考えのもと、私は『自律主義で生きる』べきだと思うし、『個人主義』的なのです。他人に迷惑をかけない限りにおいては、人間は例えどんな生き方をしようとしても、その人の自由だと思う。

以下補足。ごめん。その人がどんな人間かと、その人がどんな人生を送るのかは関係がないと断言するのは確かに言い過ぎで、人に優しくしていたら、自分が困った時に誰かに助けてもらえることはあるし、辛くても頑張っていたら、それを認められることもある。私も人に親切にすべきだと思うし、辛くてもある程度は頑張るべきだと思うし、正義は応援すべきだと思う。でも個人的には、その人がどういう人生を送るかの大部分を決定するのは、「その人がどんな人間か」よりも、その人が人生に対してどういう目的意識をもって、そのためにどう行動したかのほうが大きいと思う。つまり「どんな人間か」よりも「(こういう人生を送りたいという)意志」の方が、その人の人生を決める比率が高いと思う。「どんな人間か」は「幸せな人生を送れるか否か」というよりは、「他人に好かれるか否か」に関係があると思う。

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