文学ファイター

今年もお世話になりました。来年もよろしくお願いいたします。

2016年が終わるので何か書きたい

せっかく2016年が終わるので、記念に何か書いておきたい。でも、今もう午後7時なので下手に長文を書くと2017年を向かえてしまう。ので、できるだけコンパクトに書く。

私は段々金の亡者になってきている。ただ、金の亡者は35才をピークにして衰退させていく予定なので、あと、2、3年は金の亡者のまま行きます。

自由とは、選択肢が豊富にあることだと思う。例えば生きている皆のほとんどが人生に不自由を感じるのは、生きていると「学校に行かなければならない」「会社に行かなければならない」この2つの制限がでかいために、人生に不自由を感じるのだと思う。しかも、この2つ、月曜から金曜の朝から夕方までだから、不自由を感じるに決まっている。

私が人生で自由を感じた数少ない経験の一つが就職活動だった。たぶん「就職しなければならない」という状況だったら、失敗できないプレッシャーで、就職活動を楽しめなかったと思う。でも、私は就職してもすぐにクビになるだろうと確信していた。私は働ける人間じゃないと思ってた。だから正直、就職できなくても、それはそれで良いと思ってた。そう、私は就職失敗しても良いと思ってた。プレッシャー無かった。だから楽しかった。

プレッシャー無しで就職活動すると楽しいよ?プログラマーを選べるけど、その気になればコックさんも選べるし、電車の運転士も選べるし、本屋の店員も選べるのだ。私は何にでもなれる。選択肢が無限にある。だから楽しかった。

でも、会社や学校に行っていると、月曜から金曜日の選択肢は「学校に行く」「会社に行く」これしか選択肢がない。だから辛いのだ。

そして、お金は選択肢を増やすアイテムなのだと思う。例えば、働かなくても良いほどにお金持ちになったら、月曜〜金曜の選択肢は「旅行に行く」「近くの本屋に行く」「昼までごろごろする」「近くのレストランに食べに行く」というように、無限の選択肢を得られる。だからきっと自由な人生を送れるだろう。

ただし、自由である(選択肢がたくさんある)ことと、幸せであることは別だと思う。幸せというのは何かを選択した結果得られるものであって、自由な人は選択肢が豊富にあるからと言って、選択を間違えると、やはり不幸になるのだと思う。逆に言えば、不自由であることが必ずしも不幸なのではないと思う。不自由の中でも選択肢を間違えなければ、人は幸せになれるのだと思う。

たまに「亡くなった後に分かったけど、あの人は友達が一人もいないくせに、お金をたんまり持っていた。金の亡者だ」というような話がある。これは「お金を優先させ過ぎたあまり、友達を失ったのだ」という意味を暗に含んでいるが、これは因果関係が逆だと思う。彼らは「友達がいない結果として、(特にお金持ちになりたいわけでもないけど)お金持ちになった」のだ。だって、友達がいないと、そもそもお金を使うことがそんなに無い。遊ばないし。だから、彼らは「お金の亡者」なんかじゃなくて、ただの「孤独」なのだと思う。私と同じく。

違いは、私は明確にお金持ちを目指していることだ。なぜなら、ただの「孤独」だと、意味もなくお金持ちになって、意味もない人生を送って、死後に「金の亡者だ」とか言われるからだ。私も孤独だけど、少なくともある程度は人生を楽しみたいから自ら進んでお金持ちを目指しているのだ。時間はかかるかもしれないけど、私はお金持ちになるだろう。そして、無限の選択肢を手に入れるだろう。でも、お金持ちになるまでの正しい選択肢は選択できる自信はあるけど、幸福になるための正しい選択肢を選択できる自信はない。

お金持ちになるための明確なビジョンはあるけど、孤独死を逃れるための明確なビジョンは無い。

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