文学ファイター

私たちは正義の味方。

善と悪と道徳の話

話その1。私が小学二年生か三年生だった頃の話。

ある日、教室に行くとA君とB君が喧嘩をしていました。

A君がB君に「謝れよ!お兄ちゃんに言いつけたからな!お兄ちゃんはお前を懲らしめるって言ってたからな!」的な事を言っていて、B君は謝るのを拒否していました。

喧嘩の理由を聞くと、A君が捨てられた子猫を溺れさせて遊んでいたのを、B君がA君を殴って子猫を助けたという話でした。

そうですね。どう考えてもA君の方が悪いですね。子猫を溺れさせて遊ぶとか、人として最低ですね。

ですが、A君のお兄さんは話を聞いてA君を叱るのではなく、A君の側に立って、B君を懲らしめると言っています。

ちなみに、当時の私の道徳観は「自分より年上の人がやる行いや、言う意見は基本的に正しい」というものでした。

なので、私は「おそらく、A君の側に、私たち子供には思いもよらない正当性があり、B君が罰せられて当然なのだろう。だって、A君のお兄さんがB君を懲らしめると言っているのだから」と思いました。

まあ、私は喧嘩の理由を聞いただけで「喧嘩はやめなよ」的なことは言いましたが、それ以上深入りはしなかったんですけどね。

当時の私は、まあ今思えばクズな道徳観ですが、子供にありがちな道徳観だと思うのだけど、どう?皆、子供の頃、「自分より年上の人がやる行いや、言う意見は基本的に正しい」っていう道徳観じゃなかった?

しかし、A君のお兄さんも問題……というか、おそらくA君の家族は「子猫を溺れさせて遊んでも、別に大した事じゃない」っていう道徳観なんだろうね。なんせA君の言動見ると、A君は自分の方に正当性があると信じきっちゃってるものね。

ただ、今思い出すとB君は凄い。小学二年年生ですでに自分なりの「正義とは何か」っていう道徳観を持ってるし、「お兄ちゃんに言いつけたからな」って言われても謝らなかったってことは、ものすごい覚悟してる。正直、小学生の低学年にとって、一つ上の学年っていうだけで、怖い存在だったよね。その恐怖を受け入れてでも子猫を助けた。格好いい。

話その2。私が幼稚園児だった頃の話。

私は小さい頃、アリを踏み潰して遊んでいた事があります。単純に動いていたものが動かなくなることが楽しかったのだと思います。友達と、どちらがより多くのアリを踏み潰せるか競争とかしてました。

小学二年生くらいの頃は、アリを死なない程度に踏んで遊んでいた事があります。アリを死なない程度に軽く踏むと、アリの足が折れて、アリが斜めに歩いたりするんですよ。変な歩き方になるんですよ。当時は善悪とかじゃなくて、その変な歩き方が面白くてそんな遊びをしていました。

多分、みなさんそろそろ私の話にドン引きしてると思うので、もうちょっと皆さんが小さい頃経験したであろう話をします。小学生の頃、友達皆で原っぱで遊んだりしてると、よく男の子が「カマキリの共食い見ない?」とか言ってきませんでした?「トンボの共食い」もあった気がする。

カマキリのメスって動くものをなんでも捕食するらしいんですよ。なので、共食いとかもするんです。で、多分教室に一人か二人、野生児がいてカマキリとか捕まえるとやたら共食いを見せたがったりするんですよね。で、男女関わらずクラスメートのそこそこが興味本位で共食いを見せてもらったりするんですよ。

でも私に取って「カマキリの共食い」とか「トンボの共食い」とか想像するだけでグロテスク過ぎて、いつも「見ない?」って言われても断っていました。はい。私はアリを踏んで遊ぶような残虐な人間ですが、「共食いはなんか嫌だ」という道徳観を持っていたんですね。結局人生で未だ一度も「カマキリの共食い」も「トンボの共食い」も見たことが無い。

で、皆のクラスに少なくとも一人はそんな子がいたと思うんですが、大人の皆さんは「小さい頃カマキリの共食いを見せてくれた○○君は今頃犯罪者になってるんだろうなー」とか思います?思わないですよね。多分、普通の人になって普通のサラリーマンとかしてると思うんですよ。

ちなみに私も小学校高学年になるとアリを踏み潰す遊びはやめていました。理由は単純で「アリが可哀想だから」です。で、小さい頃アリを踏んで遊んでいた私が大人になった今、特に犯罪を犯すこともなくそこそこな社会人をしています。

で、私より上の世代になると、「昔、カエルに爆竹くくりつけて、爆発させて、内臓破裂とかさせてたなー、はっはっは」とかいう話を聞いた事があります。なにそれ怖い。

つまり、実は善悪の判断とか道徳観って先天的にあるものじゃなくて後天的に身につけるものなのだと思う。子供って意外と残酷。だから、今の私はもちろん子猫を溺れさせて遊ぶなんて人としてクズがやることだと判断する道徳観を持っているけど、もし私がA君の家の子として生まれていたら、多分子猫を溺れさせて遊ぶのをなんも罪悪感もなくやってしまってたと思う。

話その3。魚の活造りと子猫を溺れさせて遊ぶことは同じくらい残虐な事なんじゃなかろうか。

みんな、魚の活造り(さかなのいけづくり)、食べたことある?魚を生きたまま包丁で切って、お刺身にするやつ。私も小さい頃、親戚の集まりとかで食べた記憶がある。

で、例えば外国人に「魚を生きたまま包丁で切るとか、子猫を溺れさせて遊ぶくらい残虐なことだよ!」って言われたら、皆どう答える?これって結構答えるの難しくない?しいていうなら「いや、これは日本の文化だから」ってなるよね。じゃあ、もし隣に子猫を食べる文化の国があって「子猫は溺死させた方が、身がしまって美味しいんだよね」って言われたら私たちは納得できるんだろうか?子猫を溺れさせる行為は、文化になった途端許される行為になるの?

話その4。生け贄(いけにえ)の話。

例えば、どこかアマゾンの奥地で、神様にささげる為に人間を生け贄にする……つまり、人間を殺す文化がある部族があったとしたら、みんなその習慣をやめさせる?多分、多くの人がやめさせるべき、と言うと思うんだけど、私は個人的にはやめさせるのは必ずしも正解じゃないと思うんだよね。

例えば、日本中の全ての神社の鳥居が燃やされて、全てのお寺の仏像と、全てのお地蔵さまの首が切り取られたら、神様をそれほど信じてない私たち日本人でも、なんかムカムカしない?

で、神様をそれほど信じていない私たち日本人でも結構イラッとするんだから、これがガチで神様信じてるキリスト教とかイスラム教とかだったらどうだろう。

たとえば、キリスト教徒の前で、聖書をバラバラに破いて、十字架を折って、ついでに十字架に縛り付けられてるキリストの人形の首とかハサミでちょん切って「神様とかいないよ?」って言ってみたりすると、多分、キリスト教徒は私を殺しにかかると思う。

で、多分アマゾン奥地の生け贄文化を持った人が、生け贄を否定されるのは、多分それくらいのショックだと思う。彼らの神さまを否定するんだから、そりゃブチ切れる。

で、多分最初に「生け贄やめさせるに決まってる」って思った人は、多分自分自身に置き換えるとそれがどんな事か想像できてないだけだと思う。ようするに、それがアマゾン奥地の宗教ってだけで、彼らの文化を下に見てる。自文化優位主義だよ。

これは凄い偏見だけど、いかにもキリスト教徒とか、正義のためとか言って何も考えずに生け贄やめさせそうじゃない?で、その部族が切れてヤリとかで戦争ふっかけてくるのを「なんでだろう?」って理解できないと思う。多分、キリスト教徒も目の前でキリストの像の首とかハサミでちょん切ったら切れるくせに。

話その5。家に侵入してきた虫の話。

みんな、家に虫が入ってきた場合ってどうする派?問答無用で叩き潰す派?潰すのは嫌だけどティッシュで包んでゴミ箱に入れといて「君はもう死ぬ運命にあるのだよ」って虫さんに心の中で教える派?できるだけ生きたまま外に逃してあげる派?

私は蚊とかは叩き潰すけど、よく分からない小さい虫とかはできるだけ生きたまま外に逃してあげる派なんだよね。理由は単純に殺すのが可哀想だから。

で、各々の家庭で対応が異なると思うんだけど、これは各々の家の道徳文化の違いの一つだと思うんだよね。多分、各家庭で道徳観が違ってると思うんだよ。だから、極端に言えば、会社や学校で席が隣のあの人が実は子猫を殺しても平気という道徳観を持っている可能性も無きにしもあらず。そう考えると怖い。

話その6。宗教テロの話。

イスラム教徒が自爆テロをするっていう話を聞いて「なんで神様を信じている人が悪いことをするんだろう?」って思ったりしませんでした?これって多分、私たちの道徳観からすれば「人を殺すのは悪いこと」っていう道徳観だけど、テロリストにとっては「神様の為に命を投げ出さないことが、道徳的に悪いこと」っていう価値観なんだと思う。彼らは、心から「自分は正しいことをしている」と思って自爆テロをしてるのだ。そう考えると、テロリスト問題って根が深いよね。テロリストも、テロリストと戦う方もお互いに自分が信じる道徳観の下に戦ってるんだもん。お互いに心から「自分は良いことをしている」と思っているのだから。

話その7。過去の道徳観と未来の道徳観。

なんか私たちってなんとなくキリスト教が正義の宗教的なイメージがあるけど、決してそんなことはない。だって、世界的な人身売買はキリスト教の国が初めて行った。黒人奴隷とか。つまり、キリスト教は黒人や黄色人を最初、人間とみなしていなかったんだよ。動物と同じようなものだと思ってたんだよ。

で、キリスト教は、時代が人身売買や人種差別をやめよう的な流れになったからやめただけだよ。だから、今の時代の私たちから見れば、昔のキリスト教徒の道徳観とかかなり野蛮。なってない。最悪。

でも、当時の道徳観では人種差別はオッケーだったんだよ。そう考えると、道徳観なんてものはかなり曖昧なものじゃない?

今の私たちから見て昔の人の道徳観は最低に見える、ってことは、未来人から現代の私たちを見ると、私たちも何か道徳的に見て最低な事を気づかないうちにしているかもしれない。私たちに取っては日常過ぎて分からないけども。

例えば家畜とか。最終的に食用として食べるために豚や牛を産ませて育てるって、冷静に考えれば最悪な道徳観じゃない?

話その8。小学一年生の頃の話。

小学一年生の頃、担任の教師は若い先生だった。ある日先生は私たち生徒に向かって言った。
「親が警察官や自衛隊の人は立ってください」
クラスメートの数人が立つと、先生は言った。

「今、立っている皆の親は悪い人たちです」

今思えば、学生運動とかの名残りかな、と思うけど当時の僕達は意味が分からなすぎて動揺した。先生は続けて言った。

「皆も大人になれば分かります」

今、大人になっても意味が分からないし、先生の行動はクズにしか思えない。立ってる子で泣いてる子とかいたし。

でも、先生はきっと純粋に自分の事を正義だと思ってこんな行動をしたんだよ。大人になった私たちにとってはクソにしか見えない正義だけど。

ということは、私たちが今子供に良かれと思って見せてる正義や道徳も、子供たちが大人になる頃にはクソみたいなものになってるかもしれない。

まとめ。

こういう文章を書きたかったから書いただけで、特にまとめとかないよ。書きっぱなしだよ。それでいいんだよ。

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