文学ファイター

もし、変で楽しい人生を送れるならそれがベスト。

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正確に言うと「楽しい人生を送ろう」じゃなくて「変な人生を送ろう」と思った

大学生の時に「そもそも人間が生きる理由って何だろう?」って考えた。

だって、お金持ちになろうが結婚しようが起業しようが全部無駄じゃん?どうせ最後に人間は死ぬんだから。死後の世界に何も持っていけないんだから。ただ、唯一「生きてた頃の思い出」はなんとなく天国に持っていけそうだなと思った。

もし死後の世界に唯一「思い出」だけ持って帰れるのだとしたら、人間は「思い出」を創るためにこの世に生まれたのだ。「よし、じゃあ私は変な人生を送ろう」と大学生の頃に決意した。「楽しい人生」じゃなくて「変な人生」だ。

理由を説明しよう。

例えば私がごくごく普通のささやかだけど幸せな人生を送ったとしよう。

死んだ後に私は死後の世界でできた友達に、生きていた頃の思い出として「ごくごく普通の人生だったけど、ささやかで幸せな人生だった」という思い出話をしたとしよう。

友達は言うでしょう。「もうそういう感じの思い出話、100万人から聞いたことあるわ。飽きたわ」

お分かりでしょうか。もし人生の価値が「思い出」にあるのだとしたら、他人と同じような人生を送って、他人と同じような思い出を創ってもあまり「思い出」に価値が生まれない。だって、そんな「思い出」は死後の世界ではありふれているから。

あんまり他の人が送っていないような人生を送り、あんまり人が創ったことがないような「思い出」を創って死んだほうが、死後の世界でウケが良い。「思い出」にのみ価値があるとするならば、人と変わった人生を送り、人と変わった「思い出」を創って死んだほうが、「思い出」の希少価値が高い。

「だから、変な人生を送ろう」って思いましたね。まあ、そもそも当時人生がほぼ詰んでて、まっとうな人生を送れそうになかったっていうのもあるけど。

たぶん皆さんの中には「まっとうな人生を送ること」や「失敗しない人生を送ること」を目的として生きている人もいると思うけど、「思い出にしか価値がない」とするなら、「まっとうな人生を送ること」や「失敗しない人生を送ること」はあまり重要じゃない気がする。「どれだけウケがいい思い出話を作れるか」のみに価値がある気がする。

今ではそれほど「変な人生を送る」ことに固執してるわけじゃなくて、「まあまあ私自身も楽しめて、まあまあウケもいい思い出が作れたらそれがベストだな」って思ってる。まあ、現在私は変な人生を送りつつあるけど。

「人生は思い出が大事だなー」と考えるようになってから、「じゃあ、思い出として世界を色々見学してから死のうかな」って思ってたけど、実際は私はあまり世界を見学できてない。なぜなら私は典型的な内向型人間で、典型的なインドア派だからだ。お家大好き。だから、人から誘われたら外出するけど、「自分から積極的に世界を見学するぞ」という気にならない。仕方がないから「世界を見学することで思い出を創る」のは諦めて、原点に戻って「私自身が変な人生を送ること」で思い出を作ろうと思ってる。

というわけで、もしこの文章を読んでいる人で、人生が詰みそうで『楽しい人生を送ること』を目標にするのはハードルが高いと思ってる人がいるなら、まずは『変な人生を送ること』を目的に生きると良いかもしれない。

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