小説シンガー

太宰治の代表作「人間失格」は読んだこと無いけどきっとこんな内容の話だ。

読んだこと無いけど想像で書く「人間失格」

思えば恥ずべき人生を送ってまいりました。

私は今まで誠実で素直でやさしい人間としてこれまでの人生を送ってきました。それのどこが恥ずべき人生なのか、とお思いでしょう。私は確かに誠実で素直でやさしい人間ですが、これは私の心からの発露としてこのような性格になったのではなく、外から期待され、このような性格になったのです。

真に誠実であるならば、例えば私は学校で誰かがイジメられていたならば、進んで助け、問題を解決しようと努力したでしょう。しかし、私は学校のイジメ問題などには極力かかわらないようにして生きてきました。なぜなら私は本当は誠実な人間などではないからです。

真に素直であるならば、例えば私は人を外見で判断せず、その人の行動と言葉で人を判断するでしょう。しかし、私は行動や言葉ではなく「その場でもっとも偉い人」が一番正しい人間だと思い、その者の指示のとおりに動いてきました。私は人を行動や言葉ではなく、威厳や立場で判断していたのです。なぜなら私は本当は素直な人間などではないからです。

真にやさしいのであるならば、例えば私は公園に入るホームレスの生活を心配し、例えば自分のパンの一片を彼らに渡すことでしょう。しかし、私は公園のホームレスに心を配ったことなど無く、全くの他人事として生きてきました。なぜなら私は本当はやさしい人間などではないからです。

私の今の性格は両親に「誠実で素直で優しい人間として育ってほしい」という期待に応えるために、いわば人工的に作った性格に過ぎないのです。

では、本当の私とはどのような人間なのか。私は弱い人間です。私は何も背負いたくない。人生という長い旅路の中で、いかような荷物も背負いたくないのです。

例えば私は親の言うとおりに生きてきました。良く言えば「親の期待に応えるために生きてきた」とも言えるでしょう。しかし、実際はそうではないのです。私は「私自身の人生を決める」という重い荷物を、重い責任を、持ちたくないだけなのです。

例えば親の言うとおりに生き、何か失敗があれば、その責任は少なくとも私のせいではないのです。しいて言うならば親のせいなのです。なぜなら私に「この生き方をしろ」と言ったのは私の親なのですから。私は何ひとつ荷物を背負いたくなく、すべての荷物を他人に持たせたいのです。なぜなら私には荷物を持つ勇気がないからです。

私は幼い頃から「責任」というもの避けてきました。「リーダー」や「班長」というものから極力身を避けるようにして生きてきました。一切の「責任」が恐怖なのです。

私が「誠実で素直でやさしい」性格なのは、もし仮にこの性格のせいで何かを失敗しても、それが私のせいにはならないからです。「『誠実で素直でやさしい』のに失敗したのなら、それは運がなかったね」と言われるだけで済むからなのです。もちろん私は、親の言うとおりに努力をしてきました。しかし、この努力でさえも、自ら進んで行った努力などではなく、責任を負いたくないがための努力なのです。例えば、努力せずして失敗したならば、それは私のせいです。しかし、私にはそれすら恐怖でした。そこで私は私の責任を回避するためというマイナスの理由で努力をしてきたのです。

私は私の人生の一切合財をすべて他人のせいにして生きてきました。

しかし、ある日ふと周りを見回して気付いたのです。私の周りにはいつの間にか私の手にしていないものを手にした人間であふれており、そしてただただ「誠実で素直でやさしい」私は何も手に入れていないことに。

例えばある者は、スポーツで優秀な成績を収め、今まさに世界へ羽ばたこうとしていました。

またある者は、自分が所属するグループで順調に出世し、小さいながらもある集団の長となり、やりがいにあふれていました。

また別の者は、愛する者を見つけ、ともに暮らし、人生の幸福を謳歌していました。

私の周りの者はいつのまにか私の持たない「何か」を手に入れ、しかし私には「何も」ないのです。

私は確かに人工的に作った「誠実で素直でやさしい」性格を持って生きてきました。卑怯で弱い人間です。しかし、弱い人間にも弱い人間なりの自負があります。私ほどに「誠実で素直でやさしい」人間はそうはいないと思っていました。しかし、気付いてしまったのです。「誠実で素直でやさしい」人間など、この世界にあり余る程いるということに。

考えてみれば当然です。世の中の子を持つ親のほとんどが、自分の娘や息子を「誠実で素直で優しい」人間に育てたいと思って育てるのですから。

私よりも更に誠実で、私よりも更に素直で、私よりも更にやさしい人間など、この世にゴマンといるのです。私なんて所詮「誠実・素直・やさしい」ランキングの5万3013位くらいの人間です。私が自負していた「誠実さ。素直さ。やさしさ」でさえ、その程度の順位なのです。もはや私は何を自負として……いや、そもそもなぜ生きているのかすら分からなくなってきました。

え?「NO.1にならなくてもいい。もともと特別なオンリーワン」?確かにそのような歌を歌っているアイドルグループもいました。しかし、彼らが歌っても説得力がないのです。なぜなら彼らは誰の目から見ても「もともと特別なオンリーワン」なのですから。あの歌に説得力を持たせたいなら、もっとクズのような人間に歌ってほしい。働かず、昼間から酒を飲み、妻が内職で稼いだお金を賭け事ですべてスり、子供に暴力をふるう。そんなクズに歌ってほしい。そしてその者の歌を聞きながら私は思うのです。「確かにあなたは特別なオンリーワンだ。悪い意味で」と──。

え?「誠実さ。素直さ。やさしさランキング」5万3013位はこの世に一人?だからお前は特別なオンリーワン?なんというコジツケでしょう。確かに。確かに5万3013位は私一人かもしれません。しかし、同率順位がある可能性もあるのです。5万3013位の人間が13人くらいいるかもしれないのです。私は順位が5万3013位のうえに、もともと特別なオンリーワンですら無いのです。

私は、私より幸せなものが憎い。それと同時に、私自身が幸福となるのが怖いのです。幸福になるという責任すら持ちたくない。そもそも「責任」とは「何かにとらわれる」ことを意味するのではないでしょうか。つまり「責任」を持てば持つほど人間は「不自由」になるのではないでしょうか。

例えば何かの大会で優勝すると、周りの人に更に大きな大会で更に優秀な成績を取るよう強制されるのでしょう。

例えば何かのリーダーになると、部下よりも高い能力を強制されるのでしょう。

例えば家族を持つと、家族のために自分の人生の大半を使うことを強制されるのでしょう。

私は何の荷物も持っていない。なので私は何物にも縛られていない。私は自由です。しかしなぜでしょう。私の目には、荷物を持っていない私よりも、荷物を持っている彼らの方が自由に見える。

もしかしたら私は自由なのにその自由を使っていないのではないでしょうか。もしかして彼らは自由を使うことで今の人生を謳歌しているのではないでしょうか。自由を使うとは、責任を持つということなのではないでしょうか。

しかし、自由とはそもそもなんでしょうか。私には以前から不思議に思っていたことがあります。なぜ世の中にチョンマゲの男性がいないのでしょうか。古風な髪型なのは分かります。しかし日本の伝統の髪型ではないですか。古いのは分かります。ダサいのは分かります。しかし、本来であれば我々にはチョンマゲにする自由があるはずではないですか。仮に日本人の0.1%がチョンマゲをしているとすると、日本の人口は1億2500万人なので、12万5000人のチョンマゲしている人間が存在するはずです。しかしここにチョンマゲはいないのです。日本なのに。日本のくせに。

もしや私達がチョンマゲをするのにも「自由」を使用して「責任」を持たなければならないのでしょうか。チョンマゲに責任が伴うのでしょうか。

「当然だ。そんな奇抜な髪型にするのであれば、他人から奇異の目で見られるという責任を伴う」と思ったあなた。では聞きたい。あなたの今の髪型は何か責任が伴っているのでしょうか。伴っていないのですね?なぜあなたの今の髪型は責任が伴っておらず、しかしチョンマゲには責任が伴っているのですか。おかしい。今のあなたの髪型があなたの自由意志で決められたというのであれば、自由意志でチョンマゲにも出来るはずではないですか。

もしかして私は、私達は自身を自由と錯覚しているけども、実は自由ではないのではないでしょうか。その証拠に、チョンマゲにするだけのことに責任が伴う。

なぜチョンマゲにすると責任が伴うのでしょうか?奇異の目で見られるから。なぜ奇異の目で見られるのでしょうか?一般的でないから。一般的ってなんでしょうか?あなたのいうその一般とは誰が決めたのでしょう?どこの政府機関が「これは一般的である」「これは一般的でない」と定めたのでしょうか?そもそもなぜ一般的でなければならないのですか?あなたは先程私に「もともと特別なオンリーワン」と言ったではないですか。オンリーワンとはつまり、一般的ではない、ユニークであるということではないですか。あなたはユニークであることを賛美し、しかしユニークであることを拒否するのですか。チョンマゲを賛美し、しかしチョンマゲを拒否するのですか。

欧米で言う「社会」とは「個人の集まり」を指すと聞いたことがあります。しかし、日本の「社会」は欧米と同じように「個人の集まり」なのでしょうか。私にはそうは思いません。日本の社会は「個人」とは切り離されたもの、なんとなくそうしなければならないという空気感……いわば「世間」という生き物が私達の自由を制限しているのではないでしょうか。例えひとりひとりの「個人」がチョンマゲにしたいと思っても、「世間」という名の怪物が「それはダメだ」というと、私達は何の抵抗もせずチョンマゲを諦めるのではないでしょうか。自由を諦めるのではないでしょうか。

実は私達は欧米ほどの自由を持たず、さらにその自覚すら無いのではないでしょうか。欧米には「世間」という怪物がおらず、そして日本には「世間」という怪物が住む。そして私達が享受できる自由というのは「世間」という名の怪物が許可した自由だけなのではないでしょうか。

例えばスポーツで名を馳せた彼も、リーダーとなった彼も、結婚をした彼も、実は「世間」という怪物が「それは素晴らしい」と許可した自由の中だけで謳歌しているのではないでしょうか。

そして私が「自由」を持っているのにもかかわらず、その「自由」を「責任」と交換して使う勇気を持てないのは、私が「世間」という怪物を極度に恐れているからではないでしょうか。

私は「世間」という怪物を恐れ、このまま「自由」をどのような「責任」とも交換せずに死ぬのでしょうか。なにも手に入れずに死ぬのでしょうか。

もし私が「世間」という怪物に立ち向かうことができたなら、怪物に私の心からの「自由」を見せつけることができたなら、私も他の人と同じように「何か」を手に入れることが出来るのではないでしょうか。できればチョンマゲにしたいのですが、私はチョンマゲのゆい方を知らない。いやそれよりも、もっと過激な……「世間」という名の怪物をあざ笑うかのような「自由」を見せつけたい……。

「──次のニュースです。今日の午後、名古屋駅近くで上半身裸で乳首を洗濯バサミで挟んで歩いていた怪しい男が警察に拘束されました。調べに対して男は『これは世間という名の怪物への抵抗である。私の哲学の答えである』と話しているとのことです。高橋さん、また脱法ドラッグでしょうか?」

「いやー春先は変なのが出るね。大体『哲学』っていうのはね、『人間を考える』っていうことですよ。人間を考えた結果、上半身裸になって乳首を洗濯バサミで挟むとかね、こりゃもう人間失格ですよ」

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