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明治時代

日本史

明治時代(1868年〜1912年)

明治天皇

明治天皇めいじてんのう

1852年 - 1912年

日本の第122代天皇。

1867年に徳川慶喜からの大政奉還を勅許する。

1868年に「徳川慶喜の将軍職辞職の勅許」「京都守護職・京都所司代の廃止」「江戸幕府の廃止」「摂政・関白の廃止」「新たに総裁、議定、参与の三職をおく」という内容の王政復古の大号令を発する。

王政復古の大号令に反発した幕府(徳川慶喜)側と、天皇を支持する討幕派(明治新政府)はこれを原因の一つとして戊辰戦争を起こし、明治新政府側が勝利した。

1868年には五箇条の御誓文を発布して新政府の基本方針を表明。

1889年大日本帝国憲法を公布。

また日清戦争日露戦争では大本営で直接戦争指導に当たった。

1911年には各国との不平等条約の改正を完了させ、日本は列強の一員となった。

伊藤博文

伊藤博文いとうひろぶみ

1841年 - 1909年

日本の初代内閣総理大臣。

木戸孝允

木戸孝允きどたかよし

1833年 - 1877年

武士。政治家。

長州藩での討幕派の中心的人物として活躍し。薩長同盟の密約を結んだ。

維新新政府樹立後は内閣顧問などを歴任。岩倉使節団にも参加し、のちの立件体制移行の基礎を作った。

大久保利通

大久保利通おおくぼとしみち

1830年 - 1878年

武士。政治家。

西郷隆盛らと倒幕運動を推進。維新政府では廃藩置県などを行う。

朝鮮に出兵すべきという『征韓論』という主張がこの時期国内で高まったが、大久保利通はこれを拒否。征韓派の西郷隆盛や板垣退助らを政治中枢から追い出す。

西郷隆盛が率いた士族の反乱「西南戦争」では京都にて政府軍を指揮、勝利した。

紀尾井坂の変で暗殺される。享年49歳。

西郷隆盛

西郷隆盛さいごうたかもり

1828年 - 1877年

武士。軍人。政治家。

戊辰戦争を巧みに主導。江戸城無血開城をなしとげる。

新政府では陸軍大将・近衛都督を兼務。征韓論を主張し大久保らと対立。

鹿児島に戻り私学校で教育に専念。その後士族の反乱である西南戦争の指導者となるが、敗れて自害する。

板垣退助

板垣退助いたがきたいすけ

1837年 - 1919年

武士。政治家。

自由民権運動の指導者。

1881年に自由党を結成。

暴漢に襲われた際「板垣死すとも自由は死せず」と述べたことで有名。

呑敵流小具足術という柔術を本山団蔵に学んでおり、暴漢に襲われた際は相手の腹部に肘で当て身を行った。板垣は命が助かったのは師のおかげと本山に贈り物を送ったところ、皆伝を授けられた。

日清戦争

日清戦争にっしんせんそう

1894年 - 1895年

朝鮮半島(李氏朝鮮)をめぐる大日本帝国と清国の戦争。

日本と清国のいざこざが朝鮮半島でついに爆発。

日本のあまりに無理やりな開戦工作に対して明治天皇は「おい大臣。てめぇら何勝手にやってんじゃ調子乗ってんじゃねえぞコラ?(これは朕の戦争に非ず。大臣の戦争なり)」とマジギレ。

なんやかんやで日本が勝利。

下関条約(日清講和条約)が結ばれ、遼東半島や台湾を日本がもらう、多額の賠償金をもらう、などの条約を結ぶ。

が、この様子を見ていた西洋が「日本調子に乗ってんなー。ちょっと締めとくか」とフランス・ドイツ帝国・ロシア帝国の3国が干渉(三国干渉)し遼東半島を清に返させる。

日露戦争

日露戦争にちろせんそう

1904年 - 1905年

大日本帝国とロシア帝国との間で朝鮮半島と満州南部を主戦場として発生した戦争。

ロシアによる朝鮮半島の影響力への増加に日本は危機感を持つ。

三国干渉での恨みもあり日本では「ぶったおそうぜ!」派と「いや、清はどうにかなったけどロシア帝国はさすがにヤバいだろ」派に分かれていた。

ロシアでは「弱小日本が戦争ふっかけてくるはずねぇだろ」「っつーかもし来ても楽勝で勝てるだろ」と、日本に遠慮する必要は全くなかった。

──が、ロシアの影響力がこれ以上大きくなると日本本土の軍事的防衛に影響が及ぶというところで日本宣戦布告。戦争開始。

なんだかんだで日本が勝つ。世界がビビる。日本もビビる。

ただ日本側も全力を出し尽くしており日露講和条約(ポーツマス条約)ではロシアが「っつーか何ならまだ戦争続けてもいいんだけど?」と強硬姿勢をつらぬき日本が譲歩。満州南部の鉄道及び領地の租借権、大韓帝国に対する排他的指導権などを獲得したものの戦争賠償金は一切払われないという条件で交渉は締結。

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