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いざ鎌倉!

日本史

鎌倉時代(1185年頃〜1333年)

源頼朝

源頼朝みなもとのよりとも

1147年 - 1199年

平氏滅亡後、1192年に征夷大将軍に任じられ、(現在の神奈川県鎌倉市に)鎌倉幕府を開く。

鎌倉幕府

鎌倉幕府かまくらばくふ

約1192年 - 1333年

源頼朝が鎌倉(現在の神奈川県鎌倉市)に創設した武家政権(幕府)。ただし、京都にあった朝廷も並立して存在しており、二重の支配勢力が存在していた。

ただし、段々と鎌倉幕府の権力が朝廷を凌駕するようになり、1333年まで存続した。

守護

守護しゅご

各国に一名ずつ派遣された軍事指揮官のこと。

反逆者の逮捕、地頭の監視、戦時の国内の武士の指揮などを行う。

地頭

地頭じとう

公領や荘園を管理・支配するために置かれた職業。

年貢の取り立てや、警察の仕事のようなことをした。

御家人

御家人ごけにん

鎌倉幕府の中で一番偉い人と主従関係になった(ケライになった)人のこと。

御恩と奉公はぜひ覚えよう。

御恩

御恩ごおん

主人が従者の領地を保証すること(本領安堵)。また、戦争などで戦功をあげた場合は恩賞として新しい土地をあげること(新恩給与)。

鎌倉幕府は御家人を地頭へ任命する形で本領安堵と新恩給与をほどこした。

奉公

奉公ほうこう

御家人は鎌倉殿に対して、緊急時の軍役、警護、税金の支払いなどの義務を負った。

北条氏

北条氏ほうじょうし

頼朝の死後、執権(政務を補佐する職)として鎌倉幕府で政治的権力を得た一族。

後鳥羽上皇

後鳥羽上皇ごとばじょうこう

1180年 - 1239年

朝廷側のボス。鎌倉幕府側を滅ぼそうと乱を起こす(承久の乱)が敗れる。これにより、完全に鎌倉幕府側の方が立場が上になった。

北条政子

北条政子ほうじょうまさこ

1157年 - 1225年

源頼朝の妻。

源頼朝が死んだ後も鎌倉幕府を良くまとめた。

「後鳥羽上皇挙兵(承久の乱)」の知らせに鎌倉の御家人たちは大いに動揺したが、政子の名演説で御家人たちの覚悟が固まり、ついに鎌倉幕府側に勝利をもたらした。

曰く「皆、今は亡き源頼朝の御恩を忘れたか!?転校してきた時に初めて声をかけてくれたのが頼朝さま。オナラをしてしまった時に『おーっと、俺オナラしちゃったよ!』とかばってくれたのが頼朝さま。給食の時間に自分のピーマンを食べてくれたのも頼朝さま。トラックの目の前に子猫が飛び出したとき、頼朝さまはとっさに──。頼朝さまの恩は山よりも高く海よりも深い。正義無き朝廷を討ち取り、鎌倉将軍の恩に報いるとき!朝廷側につきたければつくがよい!そこに正義があると思うのなら!(故右大将の恩は山よりも高く、海よりも深い、逆臣の讒言により不義の宣旨が下された。秀康、胤義を討って、三代将軍の遺跡を全うせよ。ただし、院に参じたい者は直ちに申し出て参じるがよい)」

承久の乱

承久の乱じょうきゅうのらん

1221年

後鳥羽上皇(朝廷側)が鎌倉幕府に対して討幕の兵を挙げて敗れた兵乱。

幕府側はリスクを犯さず防御重視で徹底抗戦の慎重論と、リスク覚悟で攻撃に打って出る出撃論の二つの案が出たが北条政子は出撃作を採択。

幕府側の出撃を予測していなかった朝廷側は大いに動揺し、慌てて迎撃体制を敷くが敗れた。

この乱により朝廷は幕府に完全に従属。東側にしか勢力圏の無かった鎌倉幕府が、朝廷側の勢力圏であった西側にも影響力を持つきっかけになった。

六波羅探題

六波羅探題ろくはらたんだい

承久の乱の後、幕府が京都六波羅の北と南に設置した出先機関。

朝廷の監視の他に、裁判、治安維持、皇位決定の取り次ぎなどを行った。

イメージは「頭に六つのトサカがある腹を出した男」。

北条泰時

北条泰時ほうじょうやすとき

1183年 - 1242年

承久の乱(1221年)では幕府軍の総大将。

1224年に第三代執権となる。

それまで公家には政治制度を明記した律令があったが、武家を対象とした明確な法令が無かったため1232年に武士政権の為の法令「御成敗式目」を制定した。

イメージとしては「時を支配する」みたいなね。首にかかってるのは時計です。魔法の杖で時間をあやつります。かっこいー!

法然

法然ほうねん

1133年 - 1212年

日本の僧侶。浄土宗の開祖。

「ひたすら念仏唱えていれば天国いけるぜ」

「南無阿弥陀仏(ナムアミダブツ)」

浄土宗

浄土宗じょうどしゅう

法然が開いた宗教。

教えは「念仏を唱えまくれ」です。

イメージキャラクターは山です。この山の頂上で念仏を唱えることで、もうヤマビコがすごいすごい。

「山」=「浄化された大地」=「浄土」みたいな連想で覚えてね。

「南無阿弥陀仏(ナムアミダブツ)」

親鸞

親鸞しんらん

1173年 - 1263年

法然の弟子。

浄土真宗開く。

モットーは「仏さまの目から見れば人間は全て極悪人であり、悪人こそ救われるのだ」。

「南無阿弥陀仏(ナムアミダブツ)」

浄土真宗

浄土真宗じょうどしんしゅう

1173年 - 1263年

親鸞が法然の教えを受け継ぎ発展させた宗教。

「一般の僧侶という概念(清廉潔白)や、世間内で生活する仏教徒としての規範からはみ出さざるを得ない人々を救済する」ことをモットーとして、僧侶なのに肉を食い、僧侶なのに妻を持ち、そして後世戦国時代ではその信者の数を持ってして戦国大名なみに大暴れをし、そして現在──いくつかに分派はしているものの、宗全体としては、日本の仏教の中で最も多くの寺院と信者を擁しています。

「南無阿弥陀仏(ナムアミダブツ)」

日蓮

日蓮にちれん

1222年 - 1282年

日蓮宗を開く。

他宗を非難し、蒙古襲来を予言した。

「南無妙法蓮華経(ナムミョウホウレンゲキョウ)」

日蓮宗

日蓮宗にちれんしゅう

日蓮が開いた宗教。

日蓮の精神を受け継ぎ、批判精神に富む。

「お前の宗派のそういう所が間違っているんじゃー!がおー!」

「南無妙法蓮華経(ナムミョウホウレンゲキョウ)」

一遍

一遍いっぺん

1239年 - 1289年

時宗という宗教を開く。

踊り念仏を広める。

時宗

時宗じしゅう

一遍が開いた宗教……っていうか、一遍が新しい宗教を開いたわけじゃないけど、後に一遍の考えが受け継がれて宗教になった感じー、みたいな?

「踊れ、踊れ、踊りゃにゃ損そん♪」的な宗教なのかと思ったけど、念仏大事派宗教らしい。

なんとなくイメージで踊ってる絵にしてみたけど、信者の方は失礼だったらごめんなさい。

栄西

栄西えいさい

1141年 - 1215年

日本における臨済宗の開祖(臨済宗そのものは中国起源)。

後鳥羽天皇にとりいったりその後に北条政子にとりいったりと割と現実主義だが、「権力にとりいる嫌な奴」と評判だったらしい。

日本の宗教に禅をとりいれてみたりした。

(日本における)臨済宗

(日本における)臨済宗りんざいしゅう

宋(現在の中国)に渡り学んだ栄西によって鎌倉時代の日本に伝えられた。

時の武家政権に支持され、政治・文化に重んじられた。

道元

道元どうげん

1200年 - 1253年

日本における曹洞宗の開祖。

念仏よりも座禅が大事。むしろ座禅。さらに座禅。そのうえ座禅。行け!座禅!戦え!座禅!

(日本における)曹洞宗

(日本における)曹洞宗そうとうしゅう

宋(現在の中国)に渡り学んだ道元によって鎌倉時代の日本に伝えられた。

座禅重視。臨済宗はお高く留まりやがったが、曹洞宗は庶民に広く伝わった。

平家物語

平家物語へいけものがたり

琵琶法師によって語られた平家の栄華と没落の話。そのストーリーは現在のエヴァンゲリオン並に人気があった。

新古今和歌集

新古今和歌集しんこきんわかしゅう

後鳥羽上皇の勅命によって編まれた勅撰和歌集。

ちなみに勅撰和歌集とは天皇や上皇の命により編集された歌集のこと。

藤原定家

藤原定家ふじわらのさだいえ

1162年 - 1241年

新古今和歌集を作った人の一人。この人自身も歌人。

運慶

運慶うんけい

? - 1224年

平安時代末期・鎌倉時代初期に活躍した仏師(仏像を作る人)。

当時、仏像といえば流れるような衣装、穏やかな顔など「やさしさ」をイメージさせる様なものが多かった。

しかし、鎌倉時代。いわゆる武士が権力を握ったことにより「仏像ももうちょっとなんかさー。格好良くないとねー」な風潮の元、運慶は今までの仏像とは異なる筋骨隆々、顔はごつく、今にも「気合ださんかオラー!!」みたいに言い出しそうな仏像を作り上げた。

武家政権だからこそ出来たごつい仏像文化。「ごつい仏像作ったら受けるんじゃね?」と一番最初に考えた運慶。後世に名を残した彼はまさにラッキー系人間、運系人間と言えるでしょう。

快慶

快慶かいけい

? - ?

鎌倉時代に活動した仏師。

『力強さ』の運慶に対して、快慶は絵画的で繊細な作風で知られる。

参考サイト・仏師系譜目次神奈川仏教文化研究所

東大寺南大門の金剛力士像

東大寺南大門の金剛力士像とうだいじなんだいもんのこんごうりきしぞう

巨大な金剛力士の木造。運慶と快慶が関わった傑作として有名。

二毛作

二毛作にもうさく

同じ耕地で一年の間に2種類の異なる作物を栽培すること。日本では鎌倉時代に普及した。

元寇

元寇げんこう

この頃、世界史史上最強の帝国の一つ、モンゴル帝国(元)がアジア大陸を手中に収めていた。現在の中国や韓国、朝鮮に当たる場所はもちろん、さらに西へ攻め上り、最盛期には当時の世界の人口の約半数が支配下となっていた。

その元が日本にも服従を求めて度々使者を送ったが、鎌倉幕府側は無視。

ついに1274年、元が威力偵察(相手の出方を伺う。圧力をかけつつ戦術などを見る。これでビビって降伏してくれればラッキー)として3万の兵力を差し向ける(文永の役)。

それまで戦闘といえば一対一が基本だった日本側は、集団戦術・火薬(てつはう)での威嚇を基本とする元の兵士達に苦戦したが、段々と集団戦術に対応、また増援の到着により反撃に出る。

元側は、ただの威力偵察であったため「そろそろ矢がないし、帰ろうか」と帰っていき、文永の役は終了。

しかし、この文永の役を教訓に日本側も本気を出し、博多沿岸に20キロメートルに及ぶ防塁(防御の為の壁)を築き、次の侵略に備えた。

1281年、元、14万の兵力を率いて再び襲来。鎌倉軍は4万の兵力で迎え撃った。

文永の役によって元軍の戦法を周知していた日本軍は優勢に戦い、元軍を海上に撤退させた。その後、暴風雨が起き元軍側が混乱。好機と見た武士らが襲いかかり元軍を殲滅した。

元軍で帰還できた兵士は全体の一、二割に過ぎなかった。

当時の日本ではこの戦いを日本の神と元の神の戦いと認識され、暴風雨は『神風』と言われた。この頃から『日本は神の国』という認識が日本人の間に広まったとされる。

徳政令

徳政令とくせいれい

元寇により、鎌倉幕府配下の武士たちは金欠に陥った!なぜか!?

実はこの時代。武士たちの戦争へのご褒美といえば、敵領地を手に入れることでした。

今までは戦争と言っても日本国内での争いだったので、敵大将をやっつければそのままそいつの領地を手に入れることが出来ました。

しかし!今回の争いは完全な外部からの敵。しかも、日本は争いには勝ったとはいえ防御のみ。敵領地へ侵入して奪ったわけではありません。武士たちは元寇との争いに備えて各自で鎧や刀を借金してまで買ったのに!

御恩と奉公で成り立っていた鎌倉幕府と武士たちの間に暗雲が!

「え?鎌倉幕府さん、領地くれないの?なんで?ねぇ何で?」

浮気を問いただす女のように鎌倉幕府につめよる武士たち!

どうする鎌倉幕府!?続きはWEBで!

ごめん!ここWEBだった!

ここで鎌倉幕府は思いました。「借金をチャラにさせる法令を出せばいいんじゃね?」

幕府「徳政令じゃー!!」

こうやって日本から全ての借金が消えました。

だが金を借りていた人たちは助かったが、逆にお金を貸していた人たちはお金を返してもらうことが出来なくなってしまった。

金貸しは思った。「今後はあんまり武士にお金を貸すのはやめておこう……」

このことは、後に鎌倉幕府が滅亡する遠因の一つとなった。

北条時宗

北条時宗ほうじょうときむね

1251年 - 1284年

鎌倉幕府第8代執権。

モンゴル軍の侵攻を二度退け、その後徳政令を出すなど、結構活躍。

「こ、このムネのトキメキはなに……!?はっ!トキムネ様!!」みたいなイメージ。

後醍醐天皇

後醍醐天皇ごだいごてんのう

1288年 - 1339年

第96代天皇。

『次の天皇までのつなぎ』と言う立場で天皇に即位。前天皇、及び周りの権力者や鎌倉幕府関係者達から権力を制限されていた。

「ちっ。俺はこのままただの操り人形で終わるつもりは無いぜ」

密かに鎌倉幕府打倒計画を立てていたものの、計画がバレ、六波羅探題が後醍醐天皇の側近らを処刑(正中の変)。だが、この時幕府は天皇の処分は行わなかった。

その後も密かに倒幕を志し寺社勢力と接近したが、天皇の回りには「中継ぎとしての」後醍醐天皇の次に即位する予定の邦良親王支持派が多く、次第に窮地に陥っていく。邦良親王の病死により、幕府側から次の皇太子を指示され、退位への圧力は一層高まった。

1331年、再度倒幕計画が露見し、後醍醐天皇は隠岐の島に流罪となる。ただ、この時期反幕勢力が各地で活動しており、彼らは後醍醐天皇隠岐の島から脱出させ、天皇再度挙兵。

これを倒すため幕府は足利尊氏らを派遣したが、足利尊氏は天皇側に寝返り六波羅探題を攻略。

直後東国で挙兵した新田義貞が鎌倉を陥落させ北条氏を滅亡させる。

建武の新政

建武の新政けんむのしんせい

1333年 - 1336年

後醍醐天皇が天皇自ら政治を行う(親政)ことによって成立した政権。

「お前こそ、反北条氏勢力の希望の星!期待のルーキー!超新星!」と言われ、有頂天になる後醍醐天皇。

だが、足利尊氏が「お前のクチビルが気にくわない」と離反し、新政権はもろくも崩れ去る。

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