
794年に桓武天皇によって定められた日本の首都。
現在の京都府京都市中心部にあたる。
覚え方は「鳴くよ(794)ウグイス平安京」

758年 - 811年
平安時代の武官。
征夷大将軍となり、蝦夷をぼこぼこにやっつけた。

? - 822年
平安時代の僧。
日本で天台宗を開き、比叡山に延暦寺を建てる。
(天台宗そのものは中国発祥。)

774年 - 835年
平安時代の僧。「弘法大師」の名で知られる。
真言宗の開祖。

894年
遣唐使とは日本が中国に送っていた朝貢使。
中国が隋の時代は遣隋使と呼ばれていたが、619年隋が滅び唐が建ったので、その後は遣唐使と呼ばれていた。
874年頃、唐で黄巣の乱が起き、唐の力が弱体化したため、894年、菅原道真の提案で中止された。その後、再会されること無く907年唐は滅んだ。

日本の歴史的文化の一つ。
元々、唐の文化的影響を脱却しようという動きはあったが、894年の遣唐使廃止によって、その動きが加速した。
カタカナ、ひらがなの登場。源氏物語を書いた紫式部、清少納言が書いた枕草子。その他、文学、建築、彫刻、絵画、書道、刀剣、蒔絵など、幅広く日本流のものが生まれた。

約978年 - 約1016年
「源氏物語」の作者。
中古三十六歌仙の一人。
「小倉百人一首」にも「めぐりあひて 見しやそれとも わかぬまに 雲がくれにし 夜半の月かな」で入選。
本名不明。

紫式部が書いた長編物語、小説。
「光源氏」という男がモテてモテてモテまくる話。
女の愛と憎悪と悲しみ。繰り広げられる悲劇──。
果たして、光源氏は真実の愛を見つけられるのか?みたいなね。みたいなね。

約966年 - 約1025年
随筆「枕草子」を書く。
中古三十六歌仙の一人。
本名不詳。
「紫式部と仲が悪かったんじゃね?」説もあるが、お互いに実際には会ったことは無かったとされる。
清らかな少女のような目をしながらも、名前の最後にゴンと名のつく通り、怪獣である。

清少納言により執筆されたと伝わる随筆。
「春は曙。やうやう白くなりゆく、山際すこしあかりて──」と聞けば、国語の時間になぜか暗記させられたことを思い出す人も多いはず。
日本三大随筆の一つ。
イメージはもちろん、枕に草が生えている所。
清少納言は怪獣だけど、つぶらな瞳でいつも枕を濡らしていた。なぜなら、彼女は本当はお肉じゃなくて、草が食べたかったから──って覚えよう。

約866年 - 約945年
歌人・随筆家。三十六歌仙の一人。
醍醐天皇の命により「古今和歌集」を編纂。
他に「土佐日記」の作者としても有名。
イメージは木の顔(つら)。体は雪。

初めての勅撰和歌集(天皇や上皇の命により編集された歌集)。
醍醐天皇の命により編まれた。
イメージは古いようで新しいようなキャラクター。「若(わか)」と呼ばれるにふさわしい凛々しい顔。

この時代、源氏や平氏などの武士が興り始める。

903年 - 940年
平安時代中期の武将。
桓武天皇の孫で、平氏の姓を授けられた高望王の三男・鎮守府将軍平良将の子。
豪族間の争いで勝ち続け、名を上げる。
調子に乗って朝廷に喧嘩を売ったら大軍送られて負ける。
ほぼ同時期に瀬戸内海で藤原純友が起こした乱と合わせて「承平天慶の乱」と呼ばれたりする。

約893年 - 941年
平安時代の貴族。瀬戸内で朝廷に反乱を起こす。
地位が低かったので、瀬戸内で海賊を鎮圧する仕事をしてたけど、「そろそろ京に帰ってこいよ」命令に従わずに伊予国(愛媛県)に住む。
936年頃までには海賊の頭領となり、伊予の日振島を根城に千隻以上の船で周辺の海域を荒らし、瀬戸内全域の海賊王になる。
関東で平将門が乱を起こした頃と同じくらいの時に瀬戸内の海賊を率いて乱を起こし畿内に進出。
海賊王として大暴れ。太宰府まで襲撃。さすが海賊王。
朝廷マジギレ。大軍出撃。
純友は伊予国へ逃げたが、6月に捕まり、牢獄で死んだ。
この乱は平将門の乱と合わせて承平天慶の乱と言われるが、将門の乱は2ヶ月で平定されたのに対して純友の乱は2年に及んでいるので、正直純友の方が凄いのに将門の方が有名なのはどういうこっちゃ。

平安時代に藤原氏(藤原北家)が代々摂政(天皇がまだ政治を行うには幼い場合、天皇の代わりに政治を行う人)や関白(天皇の代わりに政治を行う人)などになって天皇の代理者、または天皇の補佐役として9世紀中頃から政治の実権を独占し続けた政治形態。
857年、太政大臣の藤原良房はこう考えていた。「権力が欲しいぜ。そして、我が藤原北家は永遠の繁栄をするのだ!!」
彼は他の有力貴族を失脚するよう仕向けるとともに、自分の親類を天皇と結婚させちゃうぜ作戦を実行。見事に成功させる。
この後しばらく「自分の娘とか親類を天皇と結婚させちゃうぜ」作戦で藤原一族は天皇に変わって権力を牛耳ることになる。藤原道長、藤原頼通の時に最盛期。

966年 - 1028年
藤原氏最盛期の一人。
「くっはっはっはっは……!!良く来たな勇者諸君!!──しかし、一足遅かったようだな。もはやこの世は我が魔族の物!!見よ!今宵描かれた真円の満月を──!!あの完璧な美しさ、まるで我が力の妖艶さを表していると思わないかね?もはや完全体となった私に敵などいない。喜べ!貴様達の体で我が力、試させてくれるわ!喰らえ!魔流天性波!!(この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも 無しと思へば)」と言うセリフで有名。藤原氏最強と詠った。
源氏物語の大ファン。

992年 - 1074年
藤原氏最盛期の一人。平等院鳳凰堂を作る。
しかし、天皇の后にした娘が男児に恵まれず、刀伊の入寇・平忠常の乱・前九年の役など戦乱が相次ぎ、朝廷内部での絶対的な権勢とは裏腹に内外においてはその政治的基盤を揺るがせる事態が相次ぎ、晩年には頼通と疎遠な後三条天皇が即位。
藤原氏お得意の摂関政治は衰退し、院政と武士の時代が台頭する。

藤原頼通が建立した寺院。
京都府宇治市宇治蓮華にあり、世界遺産に登録されている。
観光の際にはぜひ。

公的支配を受けない私的土地「荘園」がこの時期発達。
貴族が、自分の土地に税金を払わなくても良い権利「不輸の権」を適用。
それを見ていた地方豪族は、グッドなアイデア「名目上、貴族に自分の土地をあげて、実質俺が管理すれば税を払わなくていいんじゃね?」を思いつき、実行。
表向き土地を貴族にあげて、実質は豪族自身が管理する作戦は成功。貴族にはお礼にちょっと粗品をあげるけど、本物の税よりは全然安くて済む。
さらに、荘園には「嫌な奴は誰も入ってくるな(無駄に重い税を取ろうとする役人とか)」と言う権利「不入の権利」も適用されるので、地方の豪族万々歳。

1034年 - 1073年
71代目天皇。
170年ぶりの藤原氏の血筋的圧力のない天皇。
額には三条の線が!

1053年 - 1129年
72代目天皇。
後三条天皇の後に天皇になって、それなりに仕事をこなす。
その後、皇位を後継者に譲り上皇となる。
上皇とは「天皇じゃないけど元天皇」っていう意味。
「ふんふんふーん♪」と上皇になりながらもちゃっかり権力を握り、好き放題する。これを院政(いんせい)と言う。
上皇のことをマニアの間では「院(いん)」というので、上皇が天皇に変わって政治を行うことを院政と言うんですね。
この上皇の有名なセリフと言えば「なーにー?川が氾濫した?なんで俺の言うことを聞かねえんだ、川の野郎は!!なーにー?3つ進んだら1回休みだと?スゴロクとかやめやめ!!なーにー?坊さんが屁をこいた?さすがの俺でも『坊さん……今、屁をこきました?』とは聞けねぇよ。そこは空気読んでやれよ(意の如くならざるもの。鴨河の水、双陸の采、山法師)」です。

1119年 - 1164年
75代目天皇。
天皇家の権力争いに巻き込まれる(保元の乱)。
「俺に選択権は無かった。やるか、やられるか──。俺はやってやったのさ」

1127年 - 1192年
77代目天皇。
天皇家の権力争いに巻き込まれる(保元の乱)。
「避けられぬ争いだった。スキを見せれば終わりだ」

1156年
天皇を引退して上皇になっていた崇徳上皇と、現天皇である後白河天皇の対立の末に起こった乱。
対立の理由は「関西弁と関東弁のどちらが優れているか?別名、方言の乱」(嘘です)。
最終的には「っつーか、方言には方言のそれぞれの元々の良さがあるから、関東弁か関西弁どっちかに統一する必要なくね?現状を保とうぜ?(元々の良さを保つ=保元)」という主張をした後白河天皇側が勝利した。
この乱の際に天皇側として活躍した源義朝、平清盛らが後に歴史の表舞台へ立つのだ!

1123年 - 1160年
保元の乱の際、後白河天皇側として戦い勝利する。
その後、勢力争い(というか、微妙な政治的問題)で平清盛と戦う(平治の乱)。負ける。死す。

1118年 - 1181年
保元の乱の際、後白河天皇側として戦い勝利する。
その後政治的な問題から起きた衝突(平治の乱)で源義朝に勝利し、平氏最盛期を築く。
イメージキャラクターとして「平らだから四角っぽくして、後は盛(もり)だから、頭に森をイメージした木を配置してみたよ」です。

1159年
平清盛と源義朝の勢力争い。
平清盛が勝つ。
この乱の勝利により、平清盛は武士では初めて太政大臣に任じられる。

1127年 - 1279年
この時代に乱立していた中国の王朝の一つ。
日本と貿易をしてくれた(日宋貿易)良いゾウさん。いや、ソウさん。

10世紀から13世紀
平安時代の中期から鎌倉時代の中期に日本と中国の宋との間で行われた貿易。遣唐使が廃止されて以来の正式な日中交流。
以前にも小規模ながら交流はあったが、平清盛が博多に日本で最初に人工的な港を作り、貿易を本格化させた。

1147年 - 1199年
源義朝の息子(三男)。
武士という身分ながら権力を独占した平清盛(平氏)に対して貴族や各地の豪族などが反発。頼朝はその反乱軍のリーダーとなり平氏を打倒。鎌倉幕府の初代征夷大将軍となる。

1180年 - 1185年
平清盛を中心とする平氏政権に対する反乱。
別名「源平合戦」とも呼ばれるが、正確には源氏と平氏に別れた単純な争いではなく、源頼朝も最初から反乱のリーダーだったわけではない。
ただ、数々の要因の結果として偶然に源頼朝がリーダーとなり最終的には勝利した。