
1603年 - 1867年
1603年に徳川家康が征夷大将軍に任命されて江戸に幕府が樹立された時を始まりとして1867年に徳川慶喜が大政奉還を孝明天皇に宣言した時を終わりとする265年間を指す。

1543年 - 1616年
戦国武将。江戸幕府の初代征夷大将軍。
関ヶ原の決戦で勝利したことにより、覇をなした。
戦国武将としても有能だが、長く繁栄する江戸幕府の基礎を築き上げた政治手腕も目を見張るものがある。
キリスト教徒であるキリシタンは「外国のやつら……キリスト教を布教しつつ日本を植民地にしようと企んでやがるな?」と弾圧。だが、外国には興味があり朱印船貿易を奨励した。
愛称「古ダヌキ」。

日本の支配者の朱印状(海外渡航許可証)を得て海外交易を行った貿易のこと。ちなみにこの場合の船を朱印船という。
朱印状を携帯する日本船は当時日本と外交関係があったポルトガル、オランダ船や東南アジア諸国の支配者の保護を受けることが出来た。
なお、明帝国(中国)は日本船の来航を禁止していたので朱印船渡航先とならず、朝鮮との交易も対馬藩に一任されていたので朱印状は発行されなかった。
朱印船の渡航先は安南(当時北ベトナムを領有していた黎氏を擁立するハノイの鄭氏政権)、交趾(当時実質的に中部ベトナムを領有していたフエの阮氏政権)、占城(ベトナムによって南ベトナムの一隅に押し込められていたチャンパ王国)、暹羅(タイのアユタヤ王朝)、柬埔寨(メコン河流域のプノンペンを首府とするカンボジア王国)、太泥(マレー半島中部東海岸のマレー系パタニ王国)、呂宋(スペインの植民地ルソン島)、高砂(当時ゼーランディア城を拠点にオランダ人が支配していた台湾)などがある。

1637年 - 1638年
江戸時代初期に起こった乱(一揆)。
一般的には弾圧されたキリシタンによる反乱として有名だが、むしろ過酷な年貢の取り立てが背景にあるともいわれる。
当時キリシタンの間でカリスマ的な人気を得ていた美少年である天草四郎が一揆軍の総大将として担ぎ上げられたため、美少年好きな人々に人気な(?)乱。
この乱をきっかけに、キリシタンへの取り締まりがさらに厳しくなった。

1604年 - 1651年
江戸幕府の第三代将軍(在職1623年-1651年)。
長崎貿易の利益独占目的から貿易統制ならびにキリシタン弾圧を強化し、1637年(寛永14年)の島原の乱を経て1641年(寛永18年)までに鎖国体制を完成させた。

1634年に江戸幕府の鎖国政策の一環として長崎に築造された扇形の人工島。
1641年から1859年まで対オランダ貿易が行われた。
当初はポルトガル人を管理する目的であったが1639年幕府がキリスト教の布教と植民地化を避けるためにポルトガル人を国外追放としたため出島は無人状態となった。
その後、出島築造の際に出資した人々の訴えにより1641年に平戸からオランダ東インド会社の商館が移され、武装と宗教活動を規制されたオランダ人が居住することになった。
出島からもたらされる書物は医学天文暦学などの研究を促進させた。蘭学を通して生じた合理的思考と自由・平等の思想は幕末の日本にも大きな影響を与えた。

1646年 - 1709年
江戸幕府第五代将軍。
朱学を奨励。
治世の前半は天和の治と讃えられるほどの善政を行ったが、後半に「生き物を過剰に大事に扱いなさい法(生類憐みの令)」などの悪政を行う。
またデフレ不況の危機に対して貨幣の金含有率を減らした元禄金銀を作ったが、これも悪政とされる。

1657年 - 1725年
江戸時代中期の政治家・学者。
綱吉の時代に鋳造された金含有率の低い貨幣をもとの品質の貨幣に戻す。
生類憐れみの令の廃止。

1684年 - 1751年
江戸幕府第八代将軍。
幕府権力の再興に努め増税と質素倹約による幕政改革、新田開発など公共政策、市民の意見を取り入れるための目安箱の設置、公事方御定書(法律のこと)の制定などを行った(享保の改革)。
財政に直結する米相場を中心に改革を続行していたことから米将軍とも呼ばれる。
将軍として初めて「御庭番」(忍者)を創設し、諸藩や反逆者を取り締まらせた。

1719年 - 1788年
江戸時代中期の武士・大名。
悪化する幕府の財政赤字を食い止めるべく、重商主義政策を採る。内容は株仲間の結成、銅座などの専売制の実施、鉱山の開発、蝦夷地の開発計画、俵物などの専売による外国との貿易の拡大、下総国印旛沼の干拓に着手する等の政策を実施した。その結果、幕府の財政は改善に向かい、景気もよくなった。しかし、社会の初期資本主義化によって、町人・役人の生活が金銭中心のものとなり、そのために事実として贈収賄が横行した。
わいろ政治家と揶揄されることも、名政治家と讃えられることもある。

1759年 - 1829年
江戸時代の大名・政治家。
前任者である田沼意次の重商主義政策と役人と商人による利権賄賂政治から、朱子学に基づいた重農主義による飢饉対策や厳しい倹約政策、役人の賄賂人事の廃止、旗本への文武奨励などで一応の成果をあげる(寛政の改革)が、あまりにも清廉潔白な政治に厳しすぎたためか「清らか過ぎる川に住みかねて、元の濁りの田沼がこいしい」という歌が当時流行る。
大名ながら起倒流柔術の鈴木邦教の高弟で、3000人いたといわれる弟子のうちもっとも優れた3人のうちの一人。
当時廃れていた甲乙流剣術を復興し、自らが工夫した柔術を加え、甲乙流を剣・柔の2術からなる内容に改めた。
砲術についても、三木流、荻野流、中島流、渡部流の皆伝を得て、4流の長所を合わせて三田野部流を開いたが、その後さらに多くの砲術流派を研究し御家流を開いた。

1794年 - 1851年
江戸時代の大名・老中。
異国船の相次ぐ出没、年貢米収入の激減、放漫な財政に打つ手を見出せない幕府体制に危機感を抱いた忠邦は「享保・寛政の政治に復帰するように努力せよ」との覚書を申し渡し「法令が雨のように降ってくる」と言われるほどの多くの法令を定めた(天保の改革)。
が、改革は失敗に終わり忠邦は失脚した。

1642年 - 1693年
江戸時代の浮世草子・人形浄瑠璃作者。
『好色一代男』というエロ本を書いた事で有名。
今までの本と一線を画す抜群の文体で書かれたこのエロ本により、浮世草子という小説の分野を確立した。
覚え方は西を向いたエロいツル。
ちなみに西鶴は元禄時代(1688年 - 1703年)を中心として発展した元禄文化を代表する人の一人。

1653年 - 1725年
元禄文化を代表する人形浄瑠璃・歌舞伎脚本作者。
人形浄瑠璃『国性爺合戦(こくせんやかっせん)』では中国の英雄テイセイコウを題材にした作品を作り17ヶ月続演という記録を打ち立て、後に歌舞伎化もされた。
『曽根崎心中(そねざきしんじゅう)』は実際の心中事件(故あって結ばれない男女が二人で一緒に自殺すること)を題材にし、この演目により歌舞伎・浄瑠璃に『心中もの』ブームが起き、それどころか実際の『心中』ブーム(要するに男女一緒に自殺することが流行)まで起き、江戸幕府は享保8年に上演を禁止した。
「地下」「松」「門」ざえもん。

1644年 - 1694年
元禄文化を代表する俳諧師。
旅行が大好き。口ぐせは「冒険のにおいがプンプンするぜ!」であったと予想。
「月日というのは永遠に旅をする旅人であり、来ては去り、去っては来る年というのもまた旅人だよな(月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。)」で始まる旅行記(紀行文)『奥の細道』などが有名。このセリフを女子校性の前で言うと「はぁ?何いかにもカッコいいこと言って『自分他の男と違うぜ』風を装ってるの?バカじゃないの?」って言われることでも有名。

1763年 - 1828年
江戸時代後期(化政時代)の化政文化を代表する俳諧師。
「一茶」と聞くと近寄りがたいが、「小林くん」と聞くと友達になれそうな雰囲気。

1765年 - 1831年
化政文化を代表する大衆作家。わけのわからない名前で有名。
日本で初めて文筆のみで生活した人。この頃日本人の識字率があがっていたことも流行する原因となった。
『東海道中膝栗毛(とうかいどうちゅうひざくりげ)』で弥次さんと喜多さんが行く先々で騒動を起こすという滑稽本を書き、流行作家となる。

1767年 - 1848年
化政文化を代表する読本作者。滝沢馬琴という名でも有名。
『南総里見八犬伝(なんそうさとみはっけんでん)』という長編伝奇小説を書いた。

1760年? - 1849年
化政文化どころか日本史上最も偉大な浮世絵師。世界的にも有名な画家であり、世界中の芸術家に多大な影響を与えた。
『富嶽三十六景(ふがくさんじゅうろっけい)』などが有名。
曲亭馬琴と一時期コンビを組んで作品を発表し、馬琴と共にその名を一躍不動のものとした。
あらゆる種類の絵を描く。もちろん妖怪やエロ絵も描く。

1730年? - 1801年
江戸時代の国学者・文献学者。医師。
当時既に解読不能に陥っていた『古事記』の解読に成功し『古事記伝』を著した。
日本固有の情緒「もののあはれ」が文学の本質であると主張。
自然情緒や精神を第一主義とし、外来的な孔子の教えを自然に背く考えであると非難し、中華文明や思想を批判した。

1733年 - 1817年
江戸時代の蘭学医。
蘭学とはオランダの学問や文化の事。
オランダの医術書を訳した『解体新書』を著作した。

1793年 - 1837年
江戸時代後期の儒学者。大阪町奉行所の与力(今で言う警察所長のようなもの)。
奉行所時代は清廉建白な人物として次々と不正を暴く。
奉行所辞職後は自宅で私塾を開くなどしていた。
天保の大飢饉の際、米不足を利用して米価を釣り上げるなど不正を働き利益を得る奉行らに対して、もはや武装蜂起しかないとして大塩平八郎の乱を起こす。
乱は失敗し平八郎は自決したが、幕府の役人だった大塩が反乱を起こしたことは江戸幕府の要人達に、また幕政に不満を持つ民衆たちに大きな衝撃を与えた。
「大塩はまだ生きている」「海外に逃亡した」などの噂が立ち、「大塩と黒船が江戸を襲撃する」という説まで流れた。

1794年 - 1858年
アメリカ海軍の軍人。
江戸時代に艦隊を率いて鎖国をしていた日本の江戸湾浦賀(神奈川県横須賀市浦賀)へ来航した(黒船来航)。
アメリカ合衆国大統領国書を江戸幕府に渡し、1854年日米和親条約を締結させた。これにより徳川家光以来200年以上続いてきた鎖国が解かれた。
日本では一般にこの事件から明治維新までを幕末と呼ぶ。
日米和親条約の内容は「アメリカの船が来たとき物資を補給してね」とか。最恵国待遇(よその国が俺の国より良い条件で外交条約結んだら、自動的に俺の国にもその素晴らしい条約を自動的に締結してね)とか。ちなみに最恵国待遇はアメリカが日本に対してのみの片側なので、日本が不利な条約ですね。
黒船来航の際はペリーの「アメリカ独立記念日」「号令」「合図」などの名目で威嚇の空砲が発射された。最初の砲撃によって江戸は大混乱となったが、やがて空砲だと分かると町民は砲撃音のたびに花火感覚で喜んだ。
浦賀は見物人でいっぱいになり、勝手に小舟で近くまで繰り出し、上船して接触を試みる者まであったが、幕府から「警戒するように」というお触れが出ると次第に不安が広がった。
アメリカ側と日本側は交渉の際、互いに料理も振る舞った。アメリカは船上でフランス料理を振る舞ったが、この時日本側の招待された面々は十手と孫の手をナイフとフォークに見立てて作法の練習をした。
日本側がアメリカ側に本膳料理を出した際は総じて生ものや薄味の料理が多かったこと、アメリカ人にとって一品あたりの量が少なかったことでペリーは「日本はもっといいものを隠しているはずだ」と述懐している(ただし、日本側の料理は現代の価値に換算すると一億五千万円近くかけている)。
その後、日本側は何かにつけてアメリカ側に料理を食べに行ったとされる。
ペリーは幕府へ電信機と模型機関車を献上した。四分の一の大きさの蒸気機関車の模型は、円形のレールの上を実際に走らせた。また、電線を1kmほど引き、公開実験を行い「YEDO、YOKOHAMA(江戸、横浜)」と打った。これらの機械に当時の人々は大変驚いた。
ペリーが来た時代はなんとなく大塩平八郎の乱の凄い後な気がするけど、大塩平八郎がペリーのひとつ歳上と聞くと、ちょっと親近感。

1804年 - 1878年
アメリカ合衆国の外交官。初代駐日公使。
日本と1858年日米修好通商条約を締結した。
内容は治外法権(アメリカ人が日本で罪を犯しても日本の法ではなくアメリカの法で裁かれる)。協定税率(二国間で貿易の際に関税かける際、協議によって関税を決める。日本に関税自主権が無い状態)。
牛乳が大好き。

1815年 - 1860年
近江彦根藩の第十五代藩主。江戸幕府の大老。
1858年、当時の天皇孝明天皇の許可を得ないまま独断で日米修好通商条約を結ぶ。
これに孝明天皇が激怒。水戸藩に「戊午の密勅(ぼごのみっちょく)」を出す。「勅」とは要するに天皇からの指示のことであるが、本来は幕府を経由して勅を出すべきであるのに、幕府を無視して直接水戸藩に勅を出したことにより「密勅」と言われる(隠していたわけではない)。
内容は「なに天皇の許可無く日米修好通商条約に調印してるの?バカじゃないの?説明責任を求めます!」「御三家、および諸藩は幕府に協力して外国からの危機に対応しよう!」「この二つの指示を他の藩にも伝達しておいてね」というもの。
「幕府の臣下であるはずの水戸藩に朝廷から直接勅使が渡された」=「幕府の権威が傷つけられた」ということで、井伊直弼激怒。
外国にへりくだるような諸政策に反対する者たちを弾圧(逮捕。切腹。死罪など)した(安政の大獄)。
これに恨みを持った水戸藩浪士らが暗殺を決意。薩摩藩の浪士も一人加え、1860年3月24日、江戸城桜田門外にて直弼の大名駕篭を襲撃、暗殺(桜田門外の変)した。
子供の頃は茶道、和歌、鼓、禅、槍術、居合術などを学び「チャカポン(茶・歌・鼓)」というあだ名だった。

1836年 - 1867年
幕末の日本の政治家・実業家。
土佐藩脱藩後、貿易会社と政治組織を兼ねた亀山社中・海援隊の結成、薩長連合の斡旋、大政奉還の成立に尽力するなど志士として活動した。

1837年 - 1913年
江戸幕府第15代征夷大将軍。
1867年、幕府の統治権を朝廷(天皇側)に返す大政奉還を行う。
この時代「もはや旧態依然とした幕府に政権を任せていられぬ」と倒幕運動が起きており、明治新政府軍が旧幕府軍を打倒しようと進軍中であった。
1868年「ついに江戸が戦場となる」という状況の中、取引の結果江戸を戦場とせずに新政府軍に明け渡す江戸無血開城を成し遂げた。