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蘇我馬子(551年頃〜626年)

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蘇我馬子

蘇我馬子

蘇我馬子誕生

欽明天皇13年(約551年)に蘇我馬子誕生。ちなみに、ウマヅラだから馬子と名づけられたのではないです。ウマヅラなのは絵だけです。「ウマ年に生まれたからじゃないか」説があります。

敏達天皇

敏達天皇(びだつてんのう)元年(572年)の敏達天皇の即位時に大臣となります。つまり、(約)21歳の時。父がお偉いさんなので、コネがあったのです。また、馬子自身も優秀な能力の持ち主だったそうです。

敏達天皇13年(584年)百済から鹿深臣(かふか)さんがやってきます。また、佐伯連も帰ってきます。

百済の場所

百済(くだら)はここです。当時百済は日本より進んだ文化を持っていました。

鹿深臣

鹿深臣さんは弥勒菩薩の石像一体を持っていました。百済の今一番の流行りモノは仏教だったのです。

佐伯連

さらに、(おそらく大和から百済に行っていた)佐伯連(さえきむらじって読みます。佐伯一族って意味で、名前じゃないです)も仏像一体を持って帰ったよ!

ただ、調べたけど本当に仏像を持ち帰ったのが佐伯一族の事かいまいち分からなかったよ。間違ってたらメールくれ。ちなみに、佐伯一族もかっこいいぞー。天皇と同じく、神話時代の先祖を持った一族で宮廷警備とかしていて、「敵をさえぎる=さへきる=さへき」っていう名前になったらしい。

ミーハーだった馬子は鹿深臣さんが持ち帰った石像と佐伯連が持ち帰った仏像をもらいます。やったね!

「仏教ってかっこいー!俺も仏教好きになって大和にも広めちゃうぜ!」そう思った馬子さん。朝鮮半島からやってきていた仏教マニアの司馬達等さんと、こちらは日本人の池邊氷田さんを使って修行者を探させました。

司馬達等
司馬達等
池邊氷田
池邊氷田

すると、播磨国で、高句麗人の恵便(えべん)という僧を見つけます。

播磨国

高句麗

恵便
恵便

馬子は恵便を仏教の師として司馬達等の娘の嶋を出家させて尼とし善信尼としました。

嶋
善信尼
善信尼

さらに善信尼を導師として禅蔵尼、恵善尼を出家させました。

禅蔵尼
禅蔵尼
恵善尼
恵善尼

というわけで、馬子は仏教を信仰するようになり、この三人の尼(善信尼、禅蔵尼、恵善尼)を敬うようになりました。

また、仏殿も作り仏法を広めました。

585年2月、馬子(約34歳)は病気になり、占い師に占わせたところ、「あんたの父親の蘇我稲目のときに仏像が破棄された祟りじゃー!」と言われました。

蘇我馬子、病気になる

馬子は敏達天皇に言って、仏法を祀る許可をもらいました。

敏達天皇に仏教を祀る許可を得る。

ところがこの頃疫病が流行り、多くの死者が出ました。3月、『仏教って何かあんまり信じられないよねー』派の物部守屋と中臣勝海が「となりの国の神なんか信じて奉っちゃったりするから疫病が起きたんっすよー」と天皇にチクり、敏達天皇は「仏法を信じるの止めます宣言」を出した。

仏教なんて信じちゃダメですよ。

守屋は寺に向かい仏殿を破壊、仏像を海に投げ込ませました。仏教信者を罵倒し、三人の尼僧を差し出すよう馬子に命じその三人を全裸にして縛り上げ、尻にムチ打ちました。何という変態。

しかし、疫病は治まらず敏達天皇も守屋も病気になり、人々は「仏像を焼いたバチが当たったな」と噂しました。

同年6月、馬子は病気が治らず、再び仏法を祀る許可を求め、敏達天皇は馬子に対してのみ許可し、三人の尼僧を返しました。馬子は三人の尼僧を拝み、新たに寺を造り、仏像を迎えて供養しました。

再度敏達天皇に仏教を祀る許可を得る。

同年8月、敏達天皇が死去しました。葬儀の場で馬子と守屋は互いに悪口を言い合いました。

馬子と守屋、ケンカする。

次の天皇、用明天皇は馬子と血縁関係(母親が馬子の姉)があり、どちらかといえば「仏教信じて良いと思う」派でした。

用明天皇

用明天皇の異母弟の穴穂部皇子は皇位につきたがっていましたが、用明に天皇になられたため不満に思っており、守屋と手を結びました。

穴穂部皇子

用明天皇元年(586年)、馬子に息子の蘇我蝦夷誕生。

蘇我蝦夷

おんぎゃー。

用明天皇元年(586年)5月、穴穂部皇子は美人で有名な用明天皇の同母妹の炊屋姫(後の推古天皇)を犯そうと思い、敏達天皇の殯宮(「もがりのみや」と読む。死者の別れを惜しむ為に宮殿内に仮設された場。)に押し入ろうとしますが、先の敏達天皇の優秀な部下、三輪逆(みわのさかう)に門を閉じられこれを拒否されます。

炊屋姫
炊屋姫(後の推古天皇)

三輪逆

逆ギレする穴穂部皇子。蘇我馬子と物部守屋に「三輪逆は無礼じゃ!」と言い、穴穂部皇子と手を結んでいた守屋は「いや、まったく、その通り!」と言い、馬子も馬子で「うん、まぁそうかもね」と同意させました。

三輪さんは大変優秀な部下で、敏達天皇、及び炊屋姫に信頼されていました。守屋だけでなく馬子まで反対しなかったのは、三輪逆を政治の中枢から外そうという魂胆もあったのではないかという説があります。

守屋は兵を率いて三輪逆を包囲しようとしましたが、三輪逆は逃れて炊屋姫の後宮に隠れました。しかし、密告により居所が知られ、穴穂部皇子は三輪逆とその子を殺すよう守屋に命じました。やがて守屋が戻ってきて「三輪逆斬ってきたよ」と報告しました。馬子は「あのさー、前の天皇の優秀な部下をそういう立場のお前が殺したりとか、っつーかそれを穴穂部が命じるとか、っつーか原因が用明天皇の妹の炊屋姫を抱けなかったからとか、っていうか、反対しなかった俺自身とか。こりゃホントやばいよ?天下の乱が起こるよ?」と嘆きましたが、守屋は「貴様のような小物が考えるべきことではない」と答えました。

用明天皇2年4月(587年)、用明天皇は病気になり、「仏教信じて良いかなー?」と部下達に聞きました。守屋と中臣勝海は反対しますが、馬子は「ぜひぜひ!仏教信じちゃうぜ宣言出してくださいよ!」と言います。

用明、群臣に相談。

さらに馬子は穴穂部皇子に豊国法師を連れて来させます。

豊国法師

守屋は自分の味方だと思っていた穴穂部皇子が法師を連れてきたことにキレて、穴穂部皇子を睨みつけます。「お前、何考えとんじゃボケ。調子こくなよ、コラ?」

その後、物部守屋の元に情報が入ります。「あんさん、命を狙われてまっせ」

守屋は河内国へ退き、味方を募ります。

河内国

程なく用明天皇が亡くなり、守屋は穴穂部皇子を天皇につけようと画策しますが、同年6月、馬子が先手を打ち佐伯連丹經手、土師連磐村、的臣眞に穴穂部皇子と、穴穂部皇子と仲の良かった宅部皇子を殺させます。ひやっはー。

穴穂部皇子誅殺

この頃、中臣勝海は守屋の挙兵に呼応して兵を集めようとしますが、状況が不利なのを見て蘇我氏の派閥に属さない有力皇族、押坂彦人大兄皇子にかくまってもらおうとします──が、押坂彦人大兄皇子の宮殿を出たところで待ち伏せしていた迹見赤檮(とみのいちい)がこれを斬り殺します。

中臣勝海死す。

同年7月、馬子は群臣と話し合い守屋を滅ぼすことを決め、諸皇子、諸豪族の大軍を挙兵。馬子軍は河内国渋川郡の守屋の居所を攻めますが軍事氏族の物部氏の兵は強く、頑強に抵抗して矢を雨のように降らし馬子軍を三度撃退しました。

物部守屋

「くっはっはっは!我が軍がそう簡単に負けると思うてか!?」

これを見た馬子軍の廐戸皇子(後の聖徳太子)は仏法の加護を得ようと白膠(びゃっきょう)の木を切り、四天王の像をつくり、戦勝を祈願して、勝利すれば仏塔をつくり仏法の弘通に努めると誓い、馬子も寺塔を建立し、仏法を広めると誓いました。

聖徳太子、仏に誓う。

馬子は軍を立て直して攻勢をかけ、ついに迹見赤檮が守屋を射殺し、馬子は勝利します。やったね!

物部守屋

同年8月馬子は泊瀬部皇子を即位させ、崇峻天皇とします。炊屋姫は皇太后となります。

崇峻天皇と炊屋姫

崇峻天皇元年(588年)馬子は善信尼らを百済へ留学させます。

善信尼、恵善尼、禅蔵尼らが百済へ留学。

崇峻天皇5年(591年)、政治の実質的な権限を馬子に握られていた崇峻天皇は不満に思っており、10月に献上されたイノシシを指さして「おい、このイノシシの首を見ろよ!綺麗にカットしてんだろ?このイノシシみたいに、あのムカつく野郎もカッティングしちゃいたいよねー」と発言しました。この発言を知った馬子は暗殺を決意。同年11月に東漢駒(やまとのあやのこま)を使って殺害させます。臣下により天皇が殺害されたのは確定している例では唯一です。

東漢駒、崇峻天皇を殺害。

その月に東漢駒は馬子の娘である河上娘(かわかみのいらつめ)と男女関係を持ったとして馬子により処刑されます(一説には馬子による天皇暗殺の口封じでは無いかと言われている)。

馬子は皇太后であった炊屋姫を即位させ、初の女帝である推古天皇としました。

推古天皇

推古天皇

日本初の女帝であると同時に、東アジア初の女性君主。

厩戸皇子(聖徳太子)が皇太子に立てられ、摂政となります。馬子は聖徳太子と合議して政治運営し、仏教を奨励し、冠位十二階や十七条憲法を定めて中央集権化を進め、遣隋使を派遣して隋の社会制度や学問を輸入します。

聖徳太子

聖徳太子

冠位十二階や十七条憲法などを制定。

推古天皇4年(596年)に奈良県高市郡明日香村に飛鳥寺を建立。

飛鳥寺
飛鳥寺。

推古天皇28年(620年)聖徳太子とともに天皇記(歴史書。645年の乙巳の変で焼失)、国記(歴史書。645年の乙巳の変で焼失)、臣連伴造国造百八十部併公民等本記を記す。

推古天皇30年(622年)聖徳太子死去。

推古天皇34年(626年)馬子死去。

馬子の葬られた桃原墓は、奈良県明日香村島之庄の石舞台古墳だとする説が有力である。 また、同古墳の西数百mの位置にある島庄遺跡について、邸宅の一部だったとする説がある。

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