歴史ペインター

ちょっと時代が古墳時代とかぶってるけど気にするな。歴史なんてのはアバウトだ。

日本史

飛鳥時代(592年頃〜710年頃「6世紀の終わり頃から8世紀初頭」)

蘇我馬子

蘇我馬子そがのうまこ

約551年 - 626年6月19日

飛鳥時代の政治家・貴族。

敏達天皇の時大臣に就き、以降、用明天皇、崇峻天皇、推古天皇の4代に仕え、54年に渡り権勢を振るい、蘇我氏の全盛時代を築く。

外国から伝わった仏教の推進派で、日本古来の神を尊重する物部守屋と対立し、滅ぼした。

物部守屋

物部守屋もののべのもりや

? - 587年7月

飛鳥時代の有力豪族。

物部氏は有力な軍事氏族。

日本に伝来した仏教に対して強硬に反対した。

この時代、疫病が流行り、蘇我氏は「仏教を崇拝しないからだ」と主張し、物部氏は「日本古来の神を粗末にするからだ」と主張した。

次第に仏教支持派が多くなり、阿都(河内国)へ退いた。

587年、丁未の乱により滅ぼされた。

聖徳太子

聖徳太子しょうとくたいし

574年2月7日 - 622年4月8日

飛鳥時代の皇族。蘇我氏と強い血縁関係にあった。

587年 蘇我氏が物部氏を滅ぼした丁未の乱にも参加。しかし、物部氏も頑強に抵抗し、討伐軍は三度撃退された。

これを見た聖徳太子は白膠の木を切って四天王の像をつくり、戦勝を祈願して、勝利すれば仏塔をつくり仏法の弘通に努める、と誓った。討伐軍は物部軍を攻め立て、物部守屋は弓で射殺された。

593年には物部氏との戦いの際の誓願を守り、摂津国難波に四天王寺を建立した。

600年 新羅征討の軍を出し、調を貢ぐことを約束させる。

603年 冠位十二階を定め、地位によらず才能によって人材を登用しようとた。

604年 十七条憲法を制定。豪族たちに臣下としての心構えを示し、天皇に従い、仏法を敬うことを強調した。

607年 小野妹子、鞍作福利を使者とし隋に国書を送った。。

覚え方は、「小得太子、小さな得を集めて、大きな得にする!今日も10円玉拾っちゃったよ!」的なね。

あと、10人の話を順番に聞いた後、それぞれに適切な答えをしたと言われている。

丁未の乱

丁未の乱ていびのらん

587年

飛鳥時代に起きた内乱。丁未の変、物部守屋の変ともいう。仏教の礼拝を巡って大臣・蘇我馬子と対立した大連・物部守屋が乱を起こして、滅ぼされた。

小野妹子

小野妹子おののいもこ

「何者だ!?」「待て!!こいつ……ただのサツマイモじゃ無ぇ」「まさか……オノノイモコ!?」でお馴染の小野妹子です。

名前の最後に「子」という字がついているので女性と誤解されがちですが、男です。ちなみに、「帰国子女」の「子」にも男という意味があります。

遣隋使として(中国の事。「ずい」と読む)に派遣されました。遣隋使っていうのは日本から隋へのパシリの事です。今問題になっている派遣社員の元祖。「派遣として隋に使いっぱしりにいくよ」=「遣隋使」。危ない旅だったのに、保険金をかけてもらえませんでした。後に、上司である聖徳太子に裁判所から業務停止命令がでましたが、聖徳太子側はこれを無視。派遣社員と経団連の溝が深まりました。

隋に行って、聖徳太子からの手紙を隋の皇帝「煬帝(ようだい)」さんに渡しました。

手紙には「はいはーい!おっす!ワシは日が昇る方(東)の国の天子聖徳太子!みんなからショウちゃんって呼ばれてる!日が落ちる方(西)の天子、ヨウちゃんにちょっと用があんの!じつは──」みたいな事が書かれてました。

中国の煬帝は「おいおい、自分の事を天子と書いておいて、俺のことも天子と書いてやがる。この聖徳太子とか言う奴は隋を支配する俺様と、日本という小国を支配する自分の事を同列だとでも思っているのか!?」と激怒しました。

「私が書いたんじゃないのに」とか言ったけど、「屁理屈言うな!!」って怒られて校庭10週させられました。

中大兄皇子

中大兄皇子なかのおおえのおうじ「後の天智天皇」

626年 - 672年1月7日

「この中大兄皇子の絵、手抜きじゃないか?」という話を良く聞きますが、違います。私の体を良く見てください。なんと、「中」という漢字と「大」という漢字で出来ているんですね。

舒明天皇の第二皇子。

中臣鎌足らと謀り、クーデターを起こして蘇我入鹿を殺害(乙巳の変)。叔父・孝徳天皇を即位させ、自身は皇太子となった。その後、大化という元号を制定し、様々な改革を行った(大化の改新)。また、有間皇子などのちのちクーデターを起こしそうな勢力を罠に嵌めて死刑とした。

660年に百済が滅ぼされたため、朝廷に滞在していた百済王子・扶余豊璋を送り返し、百済復興を図ったが、663年白村江の戦いで大敗。667年に大津へ遷都して668年に即位した。

白村江の戦以後は、国土防衛の政策の一環として水城や烽火・防人を設置した。又、冠位もそれまでの十九階から二十六階に制度改革などを行なっている。また、670年には我が国最古の全国的な戸籍「庚午年籍」を作成させている。

中臣鎌足

中臣鎌足なかとみのかまたり

614年 - 669年11月14日

こんにちは。中臣鎌足です。

武器はもちろん鎌です。

中大兄皇子と共に蘇我入鹿を暗殺(乙巳の変)。

その後、蘇我入鹿の父の蘇我蝦夷を自殺に追い込みました。

よく、「なかとみのかたまり」と間違えられます。「中と実のカタマリ」と間違われないよう、あえて絵としては「中に実がないスッカスカなガイコツ」の死神をモチーフにしてみました。

蘇我入鹿

蘇我入鹿そがのいるか

?年 - 645年7月10日

こんにちは。入鹿だからって、まさか「イルカ」なんていう安直なキャラクターにはしないだろうという大方の予想を裏切り、イルカです。

全ての権力を手中に入れるまであと少し!というところで、中大兄皇子と中臣鎌足に殺されました。

せめてもの救いは、中大兄皇子、中臣鎌足よりも絵が「良い者キャラクターっぽい」ということです。

蘇我蝦夷

蘇我蝦夷そがのえみし

約586年 - 645年7月11日

蘇我蝦夷です。「蘇我イルカ」……いや、「蘇我入鹿」の父です。

乙巳の変で息子が殺された後、自殺に追いやられました。

魚つながりで、「親子なんだなぁ」と覚えていただけると嬉しいです。

蝦夷は「えみし」と読みます。

白村江の戦い

白村江の戦いはくすきのえのたたかい

663年8月27日 - 663年8月28日

朝鮮半島の白村江で行われた倭国(後の日本)と百済の遺民の連合軍と唐・新羅連合軍との戦い。

唐・新羅連合軍の勝利に終わった。

大陸に超大国唐が出現し東アジアの勢力図が大きく塗り変わる中で起きた戦役であり、倭国(日本)も領土こそ取られなかったものの、国防体制・政治体制の変革が起きるなど大きな影響を及ぼした。

かねてより唐と親密であった新羅が、唐の援軍を受けつつ、660年に百済を滅ぼす。

百済遺民たちは百済の復興を目指し、倭国に救援を要請。倭国を率いていた中大兄皇子はこれを承諾。三派に分かれて朝鮮半島南部に上陸したが、大敗した。

飛鳥文化

飛鳥文化あすかぶんか

飛鳥時代に花開いた仏教文化。

法隆寺とかが有名。

ちなみにこの絵は仏陀さんと鳥です。

法隆寺

法隆寺ほうりゅうじ

「ほう……。人間のクセになかなかやりおるわ……」そう言って竜王はにやりと笑った。

みたいな覚えかたが主流の法隆寺。絵は竜の絵だけどお寺だからね、法隆寺って。

飛鳥文化の代表的な建築物。

世界最古の木造建築物だそうです。

この寺の中の坊さんが座るところの後ろの隠し通路の奥に本物の竜王がいるという噂。

大化の改新

大化の改新たいかのかいしん

中大兄皇子を中心とした政治改革。

大化の改新を行う前は、天皇以外の豪族たちが権力を持っていて、天皇が思い通りに政治を行うことが出来なかった。

その、わがままな奴の代表である蘇我氏を滅ぼした中大兄皇子が、天皇に権力が集まるように政治改革をしたのが大化の改新。

特に公地公民が有名。

公地公民っていうのは「全ての土地と人間は国家のモノだ!」という、ジャイアンも真っ青な制度。

そもそも豪族たちが権力を持っていたのも彼らが自分の土地とか自分の家来を持っていたからなんだね。

それを切り崩したのが公地公民。公(国)のための土地、公(国)のための民。と覚えよう。

大友皇子

大友皇子おおとものみこ

648年 - 672年8月21日

天智天皇(中大兄皇子)の息子。

672年、天皇の地位を争い、天智天皇(中大兄皇子)の弟である大海人皇子と争い、負ける(壬申の乱)。

絵のイメージは「大きな友達」。

もちろん口ぐせは「おお!心の友よ!」

もちろんガキ大将。

大海人皇子

大海人皇子おおあまのみこ)「後の天武天皇」

約631年 - 686年10月1日

天智天皇(中大兄皇子)の弟。

672年、天皇の地位を狙い、大友皇子に反旗を翻し、勝つ(壬申の乱)。

後の天武天皇。

海をあやつる能力を持つ!……気がする。

壬申の乱

壬申の乱じんしんのらん

672年(無難(67)に(2)ガキに勝ちました。って覚えよう)

天皇の地位を巡って大友皇子と大海人皇子が争った戦い。

子供の中では一番の実力を持つガキ大将「大友皇子」であったが、海を操る能力を持つ「大海人皇子」には敵わなかった。

大友皇子に出来た唯一の反抗が、海の中でおしっこをしたことであったが、そんなマナー知らずな奴は負けて当然だ。

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