文学ファイター

タイトルが思いつかなかったので適当につけた。クリスマスと関係ないので気をつけろ。

2016年12月25日。最近考えていることなど。

私は他人とコミュニケーションがうまくいかない。その場で気づかずに相手が傷つくようなことを言ってしまい、後からそれに気がつくということもある。

『他人を平気で傷つける』。つまり、私はサイコパスなのではないか?そう思って「サイコパス (文春新書)」という本を買った。しかし、この本を読んでみると私はどうやらサイコパスではない。サイコパスは他人への共感性が低いそうだが、私は他人への共感性が低い、なんてことは無い。

私が子供の頃、当時子役であった安達祐実をただただイジメ抜く、という「家なき子」っていう有名なSMドラマがあった。私はもう安達祐実が可哀想で可哀想でそのドラマが苦手で、ドラマが始まるとテレビがあるリビングから廊下に逃げていた。

また、ジブリ映画史上、もっとも可哀想な映画「火垂るの墓」も、もう主人公たちが可哀想すぎるので、見るのが苦手で、もう何年も見ていない。

つまり、私は他人の辛さ、苦しみ、痛みにある程度共感できるのだ。私はサイコパスではない。

サイコパスでないならば、私はアスペルガー症候群なのではないか?そう思って『「もしかして、アスペルガー?」と思ったら読む本』という本を買った。内容を読んでみたが、正直に告白しよう。私はアスペルガーの傾向がある。重度のアスペルガーではないが、軽度のアスペルガーだと思われる。しかし、冷静に考えると、父親もアスペルガー的な傾向が見られるし、父親の父親、つまり祖父もアスペルガー的な傾向が見られる。つまり、父方の遺伝子が悪いのではないか!おのれ父方!そう思って父に文句を言ったところ「確かに私の家系にはアスペルガー的な傾向が見られるかもしれない。それに対して母方の家系は一見まともに見える。しかし、実は闇の深さは母方の家系のほうが深いのだ」といわれ、いくつか母方の家系の闇が深いエピソードを聞いた。

父方の浅い闇の遺伝子と、母方の深い闇の遺伝子を受け継いだ私はつまり、パーフェクトダークなんじゃないの?と、ふるえている。

というわけで、普通の人が普通の人としてふるまうのは何の努力もいらないが、パーフェクトダークな私は、普通の人のふりをする、というのにある程度の努力を必要とする。しかし、この文章を見ている人の中にも、頑張って普通の人のふりをしているけども、結構普通の人のふりをするのに努力がいる、という人もいるだろう。ともに頑張ろう。ともにサバイバルしよう。

私が普通の人のふりをする方法は、学習と模倣である。「なるほど、普通の人はこういう状況ではこう振る舞うのか」というのを見て、できるだけ変人に見えないよう真似をするのだ。既に変人とはバレているけども。つまり、普通の人のふりをする、というのは私にとってHOW TOの話である。テクニックの話である。

きっとこの文章を読んでいる普通の人の中にはこんなことを思う人もいるでしょう。「『普通の人のふり』をするんじゃなくて、そもそも努力して『普通の人になれ』ばいいのでは?」と。

私はもはや年齢は30歳を超えた。この年齢になるまでに、普通の人になる才能があるのならば、すでに普通の人になっているはずである。そして、誤解しないで欲しいのは、私が「普通の人のふり」をするのは、何かを誤魔化すような悪意はないということだ。

例えばあなたが何らかの事情でイギリスに移り住むことになったとしよう。あなたは、イギリス人にはなれないが、周りのイギリス人に失礼があるといけないので、イギリス人の真似をして、レデイファーストが当然なら、自分もレディファーストをするよう努力し、テーブルマナーが当然出来るなら、自分もテーブルマナーが当然出来るよう努力するだろう。そして、あなたがそのようにイギリス人の真似をするのに関して、あなたには悪意はないだろう。単純に、イギリス人に失礼が無いように、イギリス人の社会に溶け込めるように努力しているのだ。

私の努力もそれと同じである。普通の人に失礼が無いように、普通の人の社会に溶け込めるように努力しているのだ。つまり、あなたにとってのイギリス人が、私にとっての普通の人だ。つまり、私は日本にいながらにして国際人でもあると言っても過言ではない。私は海外に行ったことがないが、既に異文化交流を経験しているのだ。

そんな普通の人のふりを努力しないと行えない30代の私は、未だ実家で暮らしている。あなたはきっと言うだろう。「普通の人のふりを努力しないと行えないからと言って、30過ぎて実家ぐらしとかありえない。自立しろよ」と。

認めよう。確かに私は自立していない。そして、反論しよう。あなたもまた自立していない。主張しよう。あなたが自立していると、私は認めない。あなたは自立などしていない。

例えば、子供が自立をしていないことは、私もあなたも同意するだろう。子供は親に依存している。その証拠に、親が死ぬと子供は現在の生活レベルを保てないだろう。

そして、あなたは親元を離れて会社に就職したことを持って「自立した」と言っているのだろう。いいや、あなたは自立していない。あなたは依存先を「親」から「会社」に変えただけだ。その証拠に、会社が倒産するとあなたは現在の生活レベルを保てないだろう。

あなたの会社の社長も自立しているとは認めない。あなたの会社の社長は社員に依存しているのだ。社員全員が一斉に離職したら、社長は現在の生活レベルを保てないだろう。

アメリカ大統領が自立しているとは認めない。アメリカ大統領はアメリカ合衆国の体制に依存しているのだ。アメリカ以外の全世界がアメリカに宣戦布告したら、アメリカ大統領は現在の生活レベルを保てないだろう。

地球に存在するすべての生命体を自立しているとは認めない。地球に存在するすべての生命体は地球に依存しているのだ。地球が爆発したら、地球に存在するすべての生命体は現在の生活レベルを保てないだろう。

宇宙を放浪する宇宙海賊を自立しているとは認めない。宇宙を放浪する宇宙海賊は宇宙に依存しているのだ。宇宙が崩壊したら、宇宙を放浪する宇宙海賊は現在の生活レベルを保てないだろう。

つまり、この世に存在するありとあらゆるものは、必ず何かに依存している。

では「自立」をどう定義すべきか?私が考える自立とは、「常識的に考えて、半永久的に無くならないはずの何かに依存すること」または「あらゆるものに少しずつ依存し、たとえば依存先の一つが無くなったとしても、現在の生活レベルを保つのが容易なこと」である。

この自立の定義を前提とすると、やはりひとつの会社に依存しているあなたは自立しているとは言えない。だって、会社が無くなると、現在の生活レベルを保てないんでしょう?じゃあ「自立している」=「自分の力で立っている」とは言えないじゃん。その証拠に、あなたは気軽に会社をやめることが出来ない。

ちなみに自営業者やフリーランスも自立しているとは認めない。あなたは、あなた自身に依存している。あなた自身がもし病気や怪我で働けなくなったら、現在の生活を保てる?保てないんでしょ?じゃあ、あなたが自立しているとは認めない。

そう考えると、世の中には「大人」はたくさんいるけども、「自立した人」はほとんどいないのだ。

では、現実的に考えて「自立」にはどのような手段があるか。私が考えるに「社会主義的方法での自立」と「資本主義的方法での自立」があると思う。

「社会主義的方法での自立」とは、社会に存在するすべての人間がお互いに助け合う状況だと思う。ただ、これだと非現実的すぎるし、分かりにくいと思うので現実的な例をあげよう。

例えばあなたは友達がたくさんおり、人望も厚いので、働かなくても「おごるよ」とか、「うちに住む?」とか言われてそれなりの生活を保てるのだ。その代わり、友達が困ったことがあったり、手伝ってほしいことがあったりすると、あなたは出来る範囲で手を貸すのだ。例えば友達の一人が亡くなっても、あなたには友達がたくさんいるのであなたの生活レベルは低下しない。あなたが怪我や病気で動けなくなっても、周りの皆が助けてくれるだろう。

上記の例を見ると、非現実的と思われるかもしれないけど、むしろ昔は、これがある程度存在したんじゃないかと思う。日本はもともと核家族化する前は大家族だったし、ご近所付き合いももっと濃密だったはずだし、お互いに支えあって生きてたんじゃないかと思う。

これに対して「資本主義的方法での自立」とは、自身が資本家になることだ。分かりやすく言えばお金持ちになれば良いのだ。つまり「起業する」か「不動産投資をする」か「株式投資をする」のいずれか、または全てに手を出すのだ。

起業して大会社の社長になれば、まあ全社員が一斉に離職する、なんてことは考えにくい。さらに、自分が働かなくても、社員がある程度働いてくれて、自動的にお金が入る。不動産投資をしていろんな場所にマンションやアパートを立てれば、一箇所が火事や地震で倒壊しても、他の場所のマンションやアパートの収入で充分リカバーできる。日本が崩壊するほどの大地震が起これば話は別だが、常識的に考えて日本が崩壊するほどの大地震は起きないだろう。さらに、自分が病気や怪我で働けなくなっても家賃収入は入ってくる。いろんな銘柄に株式投資をしていれば、投資先のひとつが倒産しても、他の投資先の収入で充分リカバーできる。資本主義が崩壊すれば話は別だが、常識的に考えて資本主義が崩壊するほどの何かは起きないだろう。また、自分が病気や怪我で働けなくなっても配当金が入ってくる。

つまり、資本主義の国「日本」で、真の意味で「自立」しているのは「資本家」しかいない。だから、あなたが「資本家」でない限り、私はあなたを自立しているとは認めない。つまり、資本家でない私もあなたも、本質的には何かに依存しているという意味で、未だ子どもと変わらないのだ。だから私は実家ぐらしなのだ。まいったか!

むしろ、自立していないくせに自立したと勘違いして結婚などしてしまうと、なかなかに人生はハードモードになるのではなかろうか。自立していないのに、守るべきものを作ってしまうと、ますます依存先を離れられなくなってしまう。つまり、今の会社をやめにくくなってしまう。守るものを持ちながらの転職は、失敗できないという意味でリスクだ。会社をやめての起業は、資本家を目指すという意味では望ましいが、守るべきものを持ちながらの起業は、失敗できないという意味でやはりリスクだ。それもこれも、自立していないのに守るものを作ってしまったあなたの責任だ。

人生を個人プレーでプレーすべきかチームプレーでプレーすべきかは議論の余地がある。しかし、個人プレーのほうが人生は身軽に動けるのは事実だろう。人生を個人プレーでプレーしていれば、会社をやめると決断しても、すべての責任は自分にのみふりかかるので、最悪自分だけが大変になるだけだ。しかし、家族が居ると、最悪家族みんなが大変になってしまう。

例えば人生を個人でプレーしていた場合は「なんとなく海外に移住したいな」という理由で海外に移住できるが、チームプレーの場合はチーム皆を説得しないと、海外に移住したくてもそう簡単には海外に移住できない。

かといって、人生のあらゆる困難を、すべて個人プレーでこなせるとも思えない。例えばチームプレーじゃないとプレーできない人生やイベント、乗り越えられない困難もあるだろう。

つまり、人生のどの程度を個人プレーで行うか、どの程度をチームプレーで行うかも、ある程度バランスを見つつ両方取り入れるべきであり、個人プレー100%やチームプレー100%は誤りなのだろう。

そう、個人プレー100%は誤りなのだ。不用意に一人暮らししてはいけないのだ。だから私は実家ぐらしなのだ。まいったか!

しかし、このまま実家ぐらしを続けても、いつか親は死ぬのだ。つまり、そのうち私は真の意味で個人プレーで人生を送らないといけないかもしれない。

日本はなんかよく分からないけど、文化的にチームプレーを褒めて、個人プレーをけなす傾向にある。なので、正直人生を個人プレーでプレーすることに、やや後ろめたさがある。この文章を見ている方の中にも、現在人生を個人プレーでプレーしている方が何人かいるだろう。どうよ?

というわけで、流石に「人生を個人プレーでプレーする」とかいう本は無かったけど、それに類するような本を何冊か読んだ。あさってなことを言っている本もあったが、何冊かは「人生を個人プレーでやりたいなら、個人プレーでやっても特に問題ないと思う」と言っていたので、まあ、自分の人生なので好きにプレーしようと思う。お釈迦様も「サイのツノのようにただ独り歩め」っていうラップをよく歌ってたらしいから、多分個人プレーを極めると「悟りイベント」が発生してブッダになれるんだと思う。

最初のほうで言ったけど、私は毎日をどのような手段で普通の人のふりをするか、という手段で人生を組み立てて生きているけども、「どのような手段で人生を生きていきたいか」と「そもそも私はどのような人間になりたいか」というのは別の話である。

例えば、英語を話せるようになりたいときは、英語を話すという手段の勉強なので、本屋で英語学習の本を買うのだ。プログラミングが出来るようになりたいと思った時は、プログラミングを作るという手段の勉強なので、本屋でプログラミング学習の本を買うのだ。ビジネスマナーを知りたいときは、ビジネスマナーを守るという手段の勉強なので、本屋でビジネスマナーの本を買うのだ。起業したいときは、起業するという手段の勉強なので、本屋で起業に関する本を買うのだ。

ならば、「私はどのような人間になりたいか」「どのような人間を目指すべきか」「どのような考えを軸に生きていくべきか」に関しては何の本を買うべきだろうか。最初は、現実世界を舞台にしているマンガを買っていた。マンガだからと侮るなかれ。一応虚構の話ではあるが、マンガはつまり、作者の考えが反映されているので、作者の人生観とかがかいま見えるのだ。「3月のライオン」「モブサイコ100」「海街diary」とかがそこそこ面白かった。あれだね。虚構の話だと男性漫画家のほうがうまいけど、現実世界の話だと女性漫画家のほうが一日の長があるね。

それと同時に自己啓発本も読んだ。中には合わないものもあったけど、これもなかなか面白かった。ちなみに、正直言えば「お金持ちになれるぜ」的な本を結構読んだ。だってお金持ちになりたいんだもの。「これで出来るビジネスマンになれるぜ!」的な本はほとんど読まなかった。だって本来は「自立」を目指すべきであって「依存先で更に役立つコマを目指し」てどうするんだろうと思う。あと「本読むと良いよ」っていう本もよく読んだ。本読んでるけど。

そして最近は哲学の本に手を出しつつある。正直、哲学こそが人生攻略の鍵ではないのかと思っている。私達は人生をプレーするにあたって、なんとなく敷かれたレールをいつの間にか走っていたり、突破しないといけない迷路を攻略中であったりするけども、哲学を勉強すればもしかしたら、自分で気づかないところで、「あ、自分はレールから外れた人生を送ってると思ってたけど、ここもレールの上だわ」とか「あ、この迷路、歩きで攻略しないといけないんじゃなくて、空を飛ぶの有りなんだ」とか気づけそうな気がして。

しかし、正直今だに哲学の本で「これ面白いわー」っていうのを見つけられていない。まだ哲学の本を数冊しか読んでいないっていうのもあると思うけど。「哲学的な何か、あと科学とか (二見文庫)」はそこそこ面白かったけど、ページ数が多すぎて途中で挫折した。哲学本の有名な本に「14歳からの哲学 考えるための教科書」っていう本があって、これも読んだけど面白いと思えなかったし。「ソフィーの世界 哲学者からの不思議な手紙」っていう哲学本もあって、これは私が中学生の頃なぜか家にあって、読んだ記憶があるけども、途中で挫折した。だってあの本分厚いぜ?なにあの厚さ。まじか。ショーペンハウアーさんが書いた「知性について」っていう本があってAmazonでも「知性について 他四篇 (岩波文庫)」っていうタイトルで販売してて、買えるんだけど、Amazonのレビューでの評判が良いのよ。でも、本の表紙の画像がいかにも難しい本の表紙なのよ。で、私は「はっはーん。これ、表紙だけ難しそうな本の表紙だけど、読み始めると面白いパターンの本や!」って思って買って読んだら。ショーペンハウアーさんが一ページ目からエンジン全開で難しいこと喋ってて何言ってるか全くわからないの。「落ち着け。一ページ目で難しそうなこと言ってるけど、二ページ目以降、やさしい解説が待ってるパターンや!」って思って二ページ目見たら、もはや日本語とも思えない何かを喋っていて、私はそっと本を閉じた。それでも私は哲学に対してくじけていないので、しばらく哲学本にアタックし続けようと思う。

よく人間は「素晴らしい人間になること」と「素晴らしい仕事をすること」を同一視している気がする。例えば「素晴らしいリーダーになる」とか「素晴らしい部長になる」とか。でも、個人的には「素晴らしい人間になること」と「素晴らしい仕事(テクニック)をすること」は別のことだと思う。例えば、リーダーとしてあの手段を使えば皆のチームプレーが良くなるとか、あの手段を使えば、皆の無駄な作業がなくなる、っていう手段をたくさん知っていれば、それでリーダーという責任は務まるわけで、「それと同時に人間として素晴らしい人間であるべき」というのは、リーダーとはまた別ごととして行うことだと思う。もちろん素晴らしいリーダーであり、かつ素晴らしい人間であることがベストだとは思うけど。

例えば皆、小学生の時に算数を習ったと思う。この時に、みんな「計算をできるようになり」かつ「素晴らしい人間になろう」とは思わなかったでしょ?単純に「計算できるようになれれ」ば良かった。だから、友達の誰が性格の良い子で、誰が性格の悪い子かと、誰が算数が得意で、誰が算数が苦手かに関して、相関関係は無いと思う。算数が得意なクズ野郎もいただろうし、算数が苦手な優しい子もいただろう。

なのに突然大人になると「算数が得意で」「かつ素晴らしい人間になるべき」みたいな風潮があるのでビビった。あたかも、算数が苦手な子は性格も悪いみたいな空気だ。算数が得意か否かと、素晴らしい人間か否かは別の話だ。え?そんなことは分かってるって?マジで?本当に?じゃあ聞くけど、なんで有名な経営者はその人間性も素晴らしいみたいな風潮があるの?ビル・ゲイツさんはスティーブ・ジョブズさんのアイデアをパクってウィンドウズを作ったクズだし、スティーブ・ジョブズさんは他人が考えたアイデアをあたかも自分が考えたアイデアのように世に発表して他人のアイデアを盗むクズなのに。「経営をする能力」と「人間として素晴らしいか」はまた別の話なのに。

おそらく、堂々としている人間のクズは、社会的な成功がすなわち人間性の素晴らしさと比例すると勘違いしているのだろう。また、自信がなさすぎる優しい人間もまた、社会的な成功がすなわち人間性の素晴らしさと比例すると勘違いしているのだろう。

社会的な成功が人間性の素晴らしさと比例するならば、ブラック企業というものは存在しないはずだ。だって、その理屈が正しいなら、人間のクズは社長になれるはずがないもの。プーチンさんも大統領になれないはずだ。人を暗殺するようなクズが大統領になれるはずがないもの。神様も神様になれないはずだ。二度あった世界大戦や、たくさんの人が死ぬような天災に対して、何の対応も行わないようなクズが神様になれるはずがないもの。

我が名はパーフェクトダーク。神すら恐れない。

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