文学ファイター

今回は長文のターン!!

キャパシティの話

キャパシティの話。

皆さんは、どの程度のキャパシティを持っていますか?2リットル?へー、意外と入りますね。

でも今回は、あなたの胃袋にどの程度の食べ物が収まるかの話ではなく、心の余裕度、精神の余裕度の話です。

皆さんはおそらく、そこそこの精神キャパシティを持ち、そこそこの余裕度で生活していると思います。

私も会社では仕事の指示をいただくと、そこそこの精神キャパシティでそこそこの仕事をしています。

――嘘です。表向き、「私はそこそこの余裕度でこの仕事を引き受けましたよー」という顔をしていますが、心の中ではアワアワしています。必死です。

心の中で「もう無理っす。私には無理っす。出来ないっす」と唱えながら、表向きでは平静を装って淡々と仕事をこなしています。

『白鳥は水面の姿は優雅で美しいが、水の中では必死に足をバタバタして泳いでる』というのは有名な話ですね。すなわち私は白鳥じゃなかろうか。

でも、私は幼いころはここまでキャパシティが無いわけではなかったのですよ。そこそこの余裕度でそこそこの子供時代を過ごしました。

私は子供の頃はガリ勉クソ野郎でした。

どの程度のガリ勉クソ野郎かと言うと「今日の期末テストだけど、時間いっぱいまでやらずに、終わった人から途中退室して良いよー」っていう場合、私は例えテストが時間途中で早めに解き終わっても絶対に途中退室しませんでした。解答の見直しです。見直し終わって、まだ時間が残っていても途中退室しませんでした。さらなる解答の見直しです。見直し終わって、まだ時間が残っていても途中退室しませんでした。何度でも解答の見直しです。見直し終わって、まだ時間が残っていても途中退室しませんでした。永遠なる解答の見直しです。

例え一ミリでも点数が上がる確率があるなら、私は最後まであがいていました。例え、100点を確信していても、最後まで残って何度でも見直ししていました。

というか、これが普通だと思っていました。っていうか、これはガリ勉クソ野郎初級の技術ですよね?

で、今回言いたいのは、私がいかにガリ勉クソ野郎だったかではなく、私は勉強ができたということです。

学生時代っていうのは、所詮生活の中心は学校にあって、そして、学校って言うのは運動できなくても勉強さえ出来ればそこそこの余裕度で生活できます。

私は、普通の人より劣っているところも色々ありましたが、すべて『まあでも、勉強出来るし』でカバーしていました。学校って勉強さえ出来れば、そこそこなんとかなります。たまに運動会の徒競走とか言う死のイベントがあったりしますが、それも年に一、二回です。私の余裕度はゆるがない。

で、実はこの「勉強できる」っていうのは大学までそこそこ有効です。でも、社会に出ると、さすがに『勉強さえできればそこそこどうにかなる』わけではありません。

学生の勉強は、大体勉強の方向性が事前に分かります。分かりやすく言えば「今度の期末テストの範囲はここだから、この範囲を勉強しよう」っていう範囲が見えています。

でも、さすがに社会人になると「この範囲さえ勉強すればどうにかなる」わけではありません。範囲は無限大です。

社会人になると重視されるのは、むしろ「勉強できるかどうか」よりも「人生の経験値」です。

色々経験した人は、それはもちろん未経験の人よりは経験した事に対して心の余裕度があります。

「人前で発表する経験」とか「資料をまとめる技術」とか「人と交渉する」とか……。つまり、勉強だけじゃなくてちゃんと実践をつまないと上達しないよね、っていうものの事です。

さらに仕事に直接関係しない経験、例えば「バーに入ったことがある」とか「外国を旅してまわった」とか、そういう小さな経験も、なぜか偶に仕事に役立つことがあります。

また、人生で何かと色々経験している人の方が仕事が出来ます。

で、これは多分「未経験な事にチャレンジした経験が多いから」「未経験な事にチャレンジした経験が少ない人より」「未経験な事に対応出来る」ということがあるんじゃなかろうか。

私は学生時代、基本的に自分の殻に閉じこもっていました。新しいことにチャレンジするのが苦手でした。よって「人生経験値」が人より少ないです。

で、多分「普通じゃない人生を送っている」のは、必ずしも「経験値が豊富である」と同義では無いのです。「自ら進んで新しいことにチャレンジする」ことが「経験値が豊富である」と同義なのです。

私はあまり普通ではない人生を送っていますが、おそらくこの文章を読んでいる皆さんの多くが普通ではない人生を送っているはずです。

「え?私、結構普通の人生を送っているけど?」っていう人はおそらくまだ学生の方ではないでしょうか?大丈夫です。安心してください。社会人になる頃には、きっとあなたは普通ではない人生を送っているはずです。

社会人では「普通ではない人生を送っている人」が多数派です。普通の人生を送っている人がいたら、むしろその方がレアです。「普通ではない人生を送っている人」なんて世の中にありふれているのです。

つまり、「普通ではない人生」と「人生の経験値」はノットイコールなのです。

で「人生経験値」が豊富な人は何事にもそれほど動じずに対応でき、仕事が出来る人認定されて出世するのです。すげぇな。

元々私たちは子供の頃、皆ほとんど同じキャパシティでした。「遊んだ後はおもちゃ片付けなさーい。あ、あと、手を洗った?」と親に言われるだけで、私たちキャパシティの無い子供は「同時に別々の作業が出来るわけが無いじゃん!!」とパニックにおちいり、泣いていました。

しかし、その後の人生における経験値でなんとかそういう程度の低い問題はクリアできるほどのキャパシティを得ました。ですが、我々が皆等しく得たキャパシティは「基本」部分だけです。「部活の部長になる」「人に『好きだ』と告白する」そういう小さな「経験値の応用」「キャパシティの応用」で人生の経験値に差ができるようになっていきました。

人生経験値をあまり積んでいない人は、おそらく今後もそれほど「何かにチャレンジする」ということをあまりせず、人生経験値が豊富な人は今後も「積極的にチャレンジする」こととなり、そして広がる経験値格差。

で、経験値が少ない我々経験値素人は、一体如何にして経験値上級者に対抗するか?普通の経験だったら、すぐ経験値上級者にも経験されて、経験の優位性を得られない。

想像してみましょう。言うなれば、私たちは閉ざされた狭い村から一歩も出たことが無い老人です。経験値が多い人たちは、村を出て街へ行き、世界の広さを知っています。

ある冬の日、村一番の富豪の家に都会へ出ていた息子達、娘達が帰ってきました。村の外部の人(都会の人)も何人か富豪の家に集まっているようです。

そして始まる、恐怖の連続殺人事件。都会からやってきた一人の探偵。少し間の抜けた警部。そしてもう一人、この状況に絶対必要なキャラクターがいますね?頭に変な冠をかぶり、白い装束を着て、探偵や警察に警告する村の老人。「タタリじゃー!!」

つまり、私たち経験値素人は白い装束と冠を着て、来るべきときに備えて「タタリじゃー!!」と叫びながら街を徘徊する経験を積んでおけばいいと思う。絶対誰もそんな経験したことないし、今後もすることないだろうから、この経験値の優位性はゆるがない。

叫びながら街を徘徊する事で身につく度胸!冷たい目線に耐える経験値!おそらく通報されて連れていかれる警察署!そしてそれを続けることでだんだんと警察と顔なじみになるあなた!余りの奇行にテレビに取り上げられる事数度!話題作りのために本当にそういう役をもらってドラマ初出演!そして始まる役者人生!そこで出会った新人女優!結婚!出産!優雅な俳優生活!退職後、田舎へ戻っての幸せな老後!

ある冬の日、独立して東京で暮らしている息子達、娘たちが自分の誕生日のために田舎に住む自分の豪邸に集まってくれた。役者時代の友人も何人か集まってくれた。そして、始まる盛大な誕生パーティー!

だが、あなたはまだ知らない。このパーティーが、これから始まる凄惨な連続殺人事件の舞台になることを……。

タタリじゃー!!

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